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(第19回)旅人で賑わった講の宿。日本のチベット、赤沢集落を往く

 タレントの蛭子(能収)さんは、人気番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』で、すぐビジネスホテルに泊まりたがるらしい。その反対に『男はつらいよ』の寅さんは、ビジネスホテルを、「どうもああいう独房みたいなのは風情がなくっていけねえや」なんて言いながら、旅館や民宿に泊まりたがる。

 板場のおじさん、帳場の女将さん、仲居のおばちゃん。芸者の姐さん。声をかけ冗談のひとつもいい、明るくさせ、自分自身への警戒を解こうとする。ある意味、蛭子さんの気持ちもわからなくはない。寅さんは旅館で気を使いっぱなしだ。

 と、まあ、前フリはこんな感じで、今回は「宿場遺構」の味わい方だ。

 宿場遺構とは、現在は使用されていない、あるいは別の用途に転用されている古い宿、さらに、その宿が集まった宿場町跡を指す。

 時空を超えたハード(建築物)がポツンと残される。当時のソフト(サービス、人、気分)はどこにもない。だから、この「宿場観光」は、どうしても本質を見失いがちになる。

 明治・大正期ならともかく、江戸から営業を続けているような宿はほとんど現存しておらず、参勤交代などで使われた(であろう)宿泊施設は「~跡」というかたちでしか伝承されていない。

 宿場町にしても、観光用に整備された名所はあるが、当時の風情を残した地区は、全国的にみて数えるほどしかない。

 山梨県の甲府から身延山方面へと南下すると、山あいに早川町という地区がある。そこにある赤沢宿は、日蓮宗総本山の久遠寺のある身延山と七面山をつなぐ尾根道にある宿場町だ。標高約600メートル、両山の中間地点の急峻な山腹に位置する。その険しい地形から、ポカラ宮殿(ラサ)を臨む地域になぞらえ、ここを「ニッポンのチベット」と呼ぶ人もいる。

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標高約600メートルの山の斜面に作られた宿場町

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現在、赤沢宿は重要伝統的建造物群保存地区である。


 現在も営業を続ける旅館「江戸屋」は、江戸後期(天保13年)に建てられた。宿の壁面には「講」の名を記した木製の看板がびっしりと掲げられ、往時の繁栄ぶりを示している。明治の最盛期には40戸ほどの集落に9軒の宿が存在したが、交通手段の変化とともに段階的に宿の廃業が進み、2005年にはこの「江戸屋」を残すのみになった。

 江戸期から今に至るまでの宿の歴史は複雑である。現在の最高級ホテルや高級「オモテナシ」旅館を頂点とすると、ここへと進化してくる過程には、かなりの時間がかかった。旅人が食料を持ち込み、煮炊き用の薪と寝床を借りる「木賃宿」からはじまり、食事も用意される「旅籠屋」、遊女を伴う「飯盛旅籠」など、少しずつ宿の歴史が積み重ねられてきた。

 問題も多くあった。安定しない賃料、衛生面(布団のノミやシラミ)や安全面(強盗)、プライバシーの確保(相部屋が多かった)や客扱いの不均一などだ。

 一方、宿の経営も楽ではなかった。宿は、経営を安定させるためには、なるべくお金の取りやすい「飯盛旅籠」へと転換しようとする。だが、落ち着いた旅をしたいと、客側は必ずしも歓迎しない。安くて安心して泊まれる宿を求め生まれてきたのが講の宿だ。宗教的結社である「講」が定宿にすることによって経営を後押しするかたちとなった一種の協定旅館である。

 江戸の宿に関する資料はあまり多くない。宿泊したという事実は把握できるが、事件でも起こらない限り、宿のなかで行われている「諸事」が表に出てこないのは、現代でも一緒だ。

 赤沢宿は講の宿だ。身延山を参拝するために資金を積み立て、仲間たちと勇んで出かけてくる、そんな姿がイキイキと浮かび上がる。

 講の看板を眺めて想像する。寅さんがいたのか蛭子さんがいたのか、赤沢宿は妙にたのしい観光地である。

〜2018年8月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

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