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かぶりたくなるやかん

こんなに民具らしい民具はない。

やかんとは、簡単にいえば、お湯を沸かし注ぎ入れるための道具である。

アルミ製だとか鉄瓶だとか新素材がどうとか、そりゃ言い出したらきりはないが、たかが「やかん」である。

やかんの歴史を紐解こうとしたが、昔は漢方薬を煮出すのに使用されたことから「薬罐」という字が当てられた、それ以上の目新しい話はない。それよりも「やかん」がおもしろいのは、みんなが等しく、やかんに対して思い入れを持っているところである。

やかんはなぜか人々の「心象風景」に訴える。

宮沢賢治言うところの「ひとたび心に現れた現象は、間違いなく事実である」という例のアレだ。

見えるものだけがすベてではない。やかんというものは、それ自体は大層なものではないのだけれど、そのやかんが紡ぎ出す物語まで含めてがやかんなのであって、そういう意味では、されど「やかん」なのである。

くどくど何が言いたいか。わたしはこれが書きたかったのだ。「やかん三銃士」(アニメ版タイトルは「ヤカンの三カン王なのだ」)の話。わたしが「やかん」と聞いてまず思い出すのはこれ、『天才バカボン』(赤塚不二夫)のなかで描かれているエピソードだ。

バカボンのパパのうちにやかんを頭にかぶった(顔をすっぽり覆って、目のところにだけ穴が空いている)三人のおじさん(パパの後輩)がやってくる。最初は面白半分にパパも真似していたが、やかんをかぶると便利なうえに、世界が違って見え、なんだか最強な気分になり、ついにはハチャメチャになってしまうという、くだらないわりには哲学的な内容(この話はアニメにもなっていてネット等で確認できる)で、これこそがわたしのやかんの心象風景になっている。

落語でも「薬罐」という演目はあるし、海岸に流れ着いたやかんを他国の人間が兜と間違えるみたいな話は古今東西あるみたいで、きっと赤塚先生の心象風景にもこのやかんがあったのではないかと、勝手に想像するわけだ。

わたしの話を披露するまでもなく、「やかんと言えば」、みんなそれぞれ強烈な心象風景を持っている。

殺風景な部屋の中心に置いてある無骨なだるまストーブの上に置かれた、シューシューと怒ったような湯気を立てているアルミのやかん。オレンジ色のこたつ板と同じ色でチリチリと燃える石油ストーブの上にぽんとおかんが置いたホーローのやかん。運動部の夏の特訓の最中にマネージャーが重そうに運んでいる巨大なアルマイトのやかん。昼下がりの静かな学食に置いてあるボコボコのやかん。

そういえば、高級輸入家具屋に行って、ひと通り店内を見渡したあと、キッチンにディスプレイされていた2万円のやかんを見つけ、ここで買えるのはこれだけだと絶望感を感じたと言った男もいた。

やかんにはそれぞれの物語があり、わたしたちとは切っても切れない関係なのだ。

毎日のように使うやかんをもう一度見直してみる。お湯さえ沸かせればなんでもいいように思うが、実はそうならない。持ち手の具合だったり、容量だったり、重さだったり、湧く時の時間だったり、毎日のことだからいろんなことが気になり、意外に神経質になる。

その結果、うちのやかんは半世紀変わっていない。もらいものなどがあって新調してもすぐに使わなくなる。アルミが真っ黒で、よく見るといろんなところが凹んでいて、もはやぜんぜんかわいくないけど使いやすい、いざとなったらかぶってもいい、そんな不思議な民具との生活である。


これは新品、かぶりたくなるやかんだ。

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