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(第12回) 数奇な運命を辿った「競馬場跡」

 梅雨時のある蒸し暑い日、私は横浜の山手駅にいた。あいにく降り出してきた雨に備えるため、コンビニエンスストアでビニール傘を買い、何十年かぶりにある場所まで歩いてみようと思ったからだ。


 山手駅は私の通っていた高校のある駅だった。15分ほど急な坂を登り、また少し下るとその高校に着く。起伏の激しい横浜らしい街並みだ。そこからさらに20分ほど歩いた場所が、今回の目的地、根岸森林公園である。

 根岸森林公園には、こんな思い出がある。当時バレー部に所属していた私たちは、雨で専用のコートが使えなくなった晴れ間、ボールを持って、マラソンがてらその公園に行った。そういう日は、学校側から委託を受けている鬼コーチが来ないので、筋トレなどに飽きると、芝生に寝転び、つかの間の居眠りを楽しんだ。

 そんな軽いノスタルジーでも感じようと駅から歩みを進めたが、雨中、アップダウンの激しいコースで参ってしまった。なんといっても、私の感じていた距離感は高校生当時のもので、衰えた中年の足では同じ感覚では進まない。坂の途中で何度も止まりながらたどりついたころには、いつのまにか、夕暮れが迫っていた。

 「そもそも不便な場所にあることに意味があったのです」

 根岸森林公園にある、「馬の博物館」学芸員の方が、数年前、某新聞の取材にこう答えていた。

 いまは地域住民の憩いの場になっている森林公園だが、ここには深い歴史がある。江戸時代末期、尊皇攘夷の機運が高まっている頃、日本に滞在するまだ少数の外国人が、(それまで簡易的に中華街近辺で行っていた)競馬を「人が来ない安全な場所で行いたい」との要望を出した。そこでつくられたのが、この根岸競馬場である。

 明治維新後も外交の舞台に使用され、「屋外の鹿鳴館」として、幾多の物語を生んだ。いまも公園の深い木々の緑越しに、「馬見」のためのスタンドが見える。そのシンボリックな施設は、老朽化もあり近づくことはできない。長年放置し続けているが、ある意味、横浜人にはおなじみの景色となっているのである。

 日本の歴史物語を伝える施設として大きなポテンシャルを持つこの競馬場跡だが、その立地や時代の流れのなかで、数奇な運命を辿らざるを得なかった。

 日本が軍事国家へと傾倒していくにつれ、秘密保持の必要性が高まり、横須賀の軍港や航路などが見渡せるこの「丘の上」は、スパイ防止の観点から問題視された。続く太平洋戦争の開戦とともに海軍によって接収。また、終戦後は、競馬場裏手の(米軍居住区)「根岸住宅地区」とともに米軍の管轄になり、この地で競馬が行われることは完全になくなったのである。

 現在は、「馬の博物館」や(小型馬の飼育や展示が行われている)「ポニーセンター」などがあり、公園としては整備されているが、横浜らしい観光地として活況を呈しているかというと、そうとは言い切れない。なににももまして、「おい、競馬場行こうぜ!」と、30年も前の高校生に言われていた景色とまったく同じ(競馬場の面影があまり感じられない)景色だというのも、なんだかこの場合切ない。こんなものこそ、少しでも歴史上の姿に復元してほしいと思うのだ。

 近隣の米軍エリアの返還はすでに決まっている。日本と海外の架け橋としての物語が、もっともっと魅力的に発信され、「たのしい観光地」になってくれるのであれば、今日の(30年前の高校生である私の)駅からの苦労は報われるのだ。

〜2017年9月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

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敷地内に開設(1977年)された「馬の博物館」。根岸競馬場の歴史や馬に関するさまざまな企画が展示されている。


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