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総まとめ・アニマルライツについてまとめました 定義の掘り下げとディベートが主です

どうもアコニチンです。

動物の権利、英語でアニマルライツというものがあるんじゃないか、と言われています。人権など、権利を持つのは人間だけであるという意見がもともとあったんですが、動物も○○(後述)だから動物の権利を人間が認め、保護していかなければいけないという意見が出てきました。

アニマルライツとは

アニマルライツを認めなければいけない理由はいったい何でしょうか?NPO法人アニマルライツセンターから引用します。

苦痛を感じる能力があること(そのための感覚器官や神経組織、脳を備える)をはじめとして、感情や欲求を持つこと、知覚、記憶、未来の感覚があることなどを基準に、そのような動物にはなるべく自然のままに生きる権利や、人間に危害を加えられない権利があり、人間はそれらの権利を守る義務がある、という考え方です。苦痛を感じる能力のある動物に対して、苦痛を与えることをなるべくやめていきましょう。そのためには、動物を犠牲にする私たちのライフスタイルを変えていく必要があります。
苦痛を感じることのできる相手に対して、あえて苦痛を与えたいと思う人は少ないはずです。そのように配慮する対象を人間に限るのではなく、動物にも広げましょう。動物愛護法のよい側面を、さらに多くの動物へ。


動物は苦痛を感じるから、苦痛を与えられない権利、アニマルライツがある、という考えです。このアニマルライツセンターは動物を狭いケージに閉じ込める動物園、魚も苦痛を感じるので水族館に反対で、動物を食用にする(殺す)のもよくないからベジタリアン(詳しく言うとビーガン)になるのを推奨しています。


さすがにそれはやりすぎじゃない?確かにアニマルライツは大事だけど、食肉くらいはいいじゃない。研究においての動物実験やペットは必要でしょ!という考えもあります。これは、アニマルウェルフェアと言います。

ホームアニマルウェルフェアとは アニマルウェルフェア(Animal Welfare)とは、感受性を持つ生き物としての家畜に心をanimalwelfare.jp
アニマルウェルフェア(Animal Welfare)とは、感受性を持つ生き物としての家畜に心を寄り添わせ、誕生から死を迎えるまでの間、ストレスをできる限り少なく、行動要求が満たされた、健康的な生活ができる飼育方法をめざす畜産のあり方です。欧州発の考え方で、日本では「動物福祉」や「家畜福祉」と訳されてきました。家畜の劣悪な飼育環境を改善させ、ウェルフェア(満たされて生きる状態)を確立するために、次の「5つの自由」が定められました。
空腹と渇きからの自由・不快からの自由・痛みや傷、病気からの自由 ・正常な行動を発現する自由 ・恐怖や苦悩からの自由
今では、「5つの自由」は家畜のみならず、人間の飼育下にあるペットや実験動物など、あらゆる動物のウェルフェアの基本として世界中で認められています。


ちなみに、動物愛護法は令和元年6月に改正され(未施行)、動物愛護はだんだんと「しなければならない」方向に進んでいっていると思います。

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先ほどのアニマルライツの定義の中に、「自然のままに」生きる権利と書かれていました。「自然のままに」生きるとはどういう意味なのでしょうか。

自然のままに

自然のままの状態で生きる権利が動物にあるとして、「家猫は家にいない方が、野生の方が自然だ!よし、自然に返そう。」とはならないし、輸入生物を家の外に放って満足感に浸る人もいないだろう。
では、一度人間の手に渡った動物の自然のままの状態はどこにあるのか。家の外ではないし、環境が変わっているから捕獲した場所、とも一概に言い切れない。生態系の変化もしかり、人間に飼われたことで筋肉の衰えやえさが取れなくなっているかもしれないし、親が死んでしまったかもしれない。そこで、人間のせいで自然のままの状態に人間の介入が不可欠になった生物、蚕を紹介しよう。

養蚕に使われる種類は、絹糸がたくさんとれるよう、病気に強く糸を吐く量が多い個体を掛け合わせて品種改良が進められています。絹糸をとるという目的に特化して改良されているため、成虫は口吻が退化していて餌を食べることができず、また翅が小さいため飛ぶこともできません。幼虫も成虫も動
きが非常に遅く攻撃手段ももたないため、仮に野生に放たれたとしても生き残ることは困難でしょう。産まれてから死ぬまで人間とともに生活しています。


自然のままの状態=人間が関わらない状態、ではない。人間との共存が必要で、動物にノータッチでいればいいってものでもない。人間がはびこるこの世界で、自然のままの場所はどこにあるのだろうか。
アニマルライツを守るために、動物園をなくそうという運動がある。もし、動物園が日本から全てなくなるとしたら、動物園で育った動物たちはどうするのだろう。アニマルライツを守りながら動物園ではない場所に動物を移すのは大変だと思う。外国の動物園はアニマルライツを守っているから(?)、外国に移すのか、安楽死させるのか。自然界に無責任に戻すのがいいのか。

次に、動物園はいるのか、アニマルライツの観点から考えてみました。

≪主張≫動物園はいらない

理由1)アニマルライツの尊重
倫理的問題がある。生き物の尊重の面からみて、動物園はよくない。動物園は動物のことを考えた施設ではなくて、動物を人間の見世物にするための施設。動物を虐げて人間が快楽を得るのは良くない。
動物が感じるストレス。見られることによる精神的ストレスを動物は感じる。他にも不自由を強いられたり、野生環境・自然界からの分離によるストレス、例えば食べ物が自分で取れないことや親と引き離されてしまうことやケージが狭いことなどによるストレスを感じているだろう。
理由2)その他
動物園の運営費用。餌の調達や世話に高いお金がかかる。たとえばコアラのユーカリはとても高い。
動物による騒音・においがするため、動物園近隣の住民が不快感を感じる。

ディベートをするなら、私はこのように言います↓

動物園はいりません。
なぜなら、動物はアニマルライツを持っているからです。動物は人間と同じように権利を持っているのにも関わらず、動物園の狭いケージに囲われ、多くの見物客に自らの私生活を終始覗かれています。動物たちは人間の好奇の視線を受けるためだけに閉じ込められており、自らには何の利益もありません。なんてストレスフルな環境でしょう! 私たちが同じ処遇にあったとしたらと考えるとゾッとしますね。さて、パンダの赤ちゃんを想像してみてください。かわいいですね。どうして私たちはタオルにくるまれた赤ちゃんたちの姿の写真や動画をを目にしているのでしょうか。それは、親パンダと引き離され、子供は親から離れて飼育員によって育てられているからに違いありません。動物たちは狭い檻に囲われているだけではありません。寝る時間や餌を食べる時間さえも人間によって管理されているのです。この生活のどこに自由がありましょうか、いいえありません。この可哀そうな動物たちには一時の自由さえないのです。狭い檻に閉じ込められ、餌を自ら選ぶこともできず、他人の目にさらされ続けていて、親とともに過ごす自由さえ制限されてる。動物園は動物たちにとって権利の侵害も甚だしく、まさに虐待そのものなのです! この悪しき環境をつくり出し、動物をこの悪しき環境へ同意もなしに連れてきてしまった…… 人間はなんて過ちを犯してしまったのでしょうか。
しかしまだ遅くはありません。今すぐに動物園をなくすのです。動物園をなくし、動物たちを自然のままの環境へ戻すのです。そうすれば、動物たちは人間により危害を加えられることはありません。人間の利益や経済、そのようなものよりも、今ここに生きている一匹の動物のことを考えて下さい。一匹一匹の動物たちの幸せを考えてください。動物たちの最大限の幸せを考えるとき、動物園は全くもって必要のないものなのです。

反論

>動物はアニマルライツを持っているから→本当に動物は苦痛や感情、アニマルライツを持っているのか。人間にはそのような感情的なものを認知することはできない。
>多くの見物客に自らの私生活を終始覗かれています→そもそも動物は人間に見られ消費される商品なのだから、多少観察された程度でストレスを感じるとは思えない。もしストレスを感じたという根拠があるのであれば、バックヤードに連れていけばよい。
>自らには何の利益もありません→敵、餌、衛生さを考えて。有り余るほどの利益がある。
>親パンダと引き離され、子供は親から離れて飼育員によって育てられているからに違いありません→動物にだって育児放棄はある。ただ飼育員が赤ちゃんのことを考えて最善の処置をとったまでである。
>動物たちには一時の自由さえないのです→自由とは何か説明不足。人間でも、娯楽と食事と衛生的環境さえあれば寝室から外に出られないとしても不自由を感じない人も多い。
>虐待そのもの→虐待は言い過ぎ。自然よりむしろ快適では?
>自然のままの環境へ戻す→どうやって? 急に外敵のいる、餌を自分でとる必要のある、生まれ育ったのと異なる環境に連れていくということですか?

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≪主張≫動物園はいる

理由1)動物のためになる
過ごしやすい環境。エコシステム(ざっくりいうと自然界と同じような環境で動物を飼育する環境)を導入している動物園もある。動物園は檻の中だけではない。天敵がおらず、餌を捕まえる労力が少なくて、衛生的で、飼育員による手厚い世話が受けられ、過ごしやすい環境となっている。動物の保護の面でも動物園は活躍する。
動物の保護。絶滅の危機から遠ざけ、種を保存したり、動物を繁殖させ、生態系に戻している動物園もある。
理由2)教育、研究
大学の研究にも利用できる。動物を身近において、観察をするための施設としての動物園の価値は高い。
動物は子供の好奇心と興味をそそらせる。動物園は大きな動物やレアな動物を展示できる。家ではペットとして飼えない動物を見ることができる。子供に命の大切さを教えることができ、その動物に関係する職業に就いた子供によって知識や技術発展につながるかもしれない。
理由3)その他
動物園がなくなると動物の飼育員、獣医の職場が減る経済や大学への打撃。動物園に観光客が来るので、地方自治体に利益が出る。

ディベートをするなら、私はこのように言います↓

動物園はいります 【動物のためになる】
動物園をただ狭いケージに囲われた場所だと思っていませんか。それは違います。動物園は動物たちのことをよく考えたとても過ごしやすい環境なのです。天敵がおらず、餌は待っていれば出てくる、よく掃除され衛生的な環境なのです。命の危機に瀕せず、悠々自適な生活を送れる素晴らしい環境なのです。餌をとるために駆けずり回ることもなく、ただ生きているだけで自分たちの生活が保障されます。うらやましい。私もこのような環境で暮らしたいです。さらに、サファリパークのように自然のままの動物の姿を見せてくれる動物園もありますね。動物にとって過ごしやすい環境で繁殖できれば、種の保存にもつながります。また、動物園で繁殖した動物を自然に返している動物園もあります。動物園は自然から動物を奪っているだけではありません、返してもいるのです。
動物園はいります 【教育、研究】
動物園は大学と協力して動物の研究を進めています。この研究は飼育技術の向上や動物、動物を取り巻く環境への理解や動物の健康・繁殖・福祉の充実につながります。また、動物園は子供にとってとても大切な環境です。生きている動物を間近に感じることで、命の大切さや動物への興味、関心を育むことができます。普段の生活では、身近に動物を感じることはありませんからね。家で犬猫を飼っていなければなおさらですし、アレルギーがあったとしても離れて観察する分には問題ないでしょう。子供たちが動物に興味を持てば、将来動物の研究をしたり、動物のもつ特徴を生かした技術を生み出してくれるかもしれません。そうでなかったとしても、動物園は子供たちの興味関心を引き出してくれる、代替の利かない大切な場所なのです。

反論

【動物のためになる】
>過ごしやすい環境→「過ごしやすい」より「自由」が大切。いくら過ごしやすくとも、動物の本能から外れた環境は自然ではない。
>ただ生きているだけ→見物客を楽しませるよう理不尽な目に合っている。主食を減らされ間食を強要されたり、歩き回らせられたりする。
>サファリパークのように自然のままの動物の姿→狭すぎる、特に日本は。人間の利益が出る範囲で自然に近づけた人工空間に過ぎない。
>種の保存→この弱肉強食の世界では、可哀そうではあるが、絶滅も自然の摂理である。今まで多くの生物を絶滅に追いやってきた人間様が見る価値のある動物を無理に生き永らえさせようとするのは自分勝手にすぎない。
【教育、研究】
>命の大切さ→生きている動物を見るだけで、命の価値を感じ取れるのか?
>動物園は子供たちの興味関心を引き出してくれる、代替の利かない大切な場所→動物園の他にも子供の興味関心を引き出す場所はごまんとある。科学館や博物館に行ってはどうだろう。

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外来種のアニマルライツ

アニマルライツを守るのは大切だ!動物を殺したり、虐待したり、狭いケージに閉じ込めるのはよくない!在来種を守るために外来種を駆除しなきゃ! という思想にどこまで共感できますか?

私は、アニマルライツを守るのはもちろん必要だと思うのですが、それと同時に、例えば動物実験や屠殺(食肉、皮革などにするため家畜を殺すこと)の重要さも否定できないと思います。どちらかといえば、「人間の利益のために動物が犠牲になるのは仕方がない」という立場です。

屠殺や動物実験は、人間の利益のために動物を殺したり実験したりすることだ。アニマルライツの観点からいえばやめるべきことなのだが、人間は肉を食べたがるし動物実験によりつくられた薬や化粧品の恩恵に授かっている。アニマルライツを持つ動物に対して屠殺や動物実験をしてよい道徳的で正当性のある理由付けはまだできてない。アニマルライツと人間の利益に相反しない策があればよいのだが、私にはクローンくらいしか思いつかない。


次に、外来種についてです。外来種は悪で駆除の対象として扱われることが多いように感じますが、外来種も在来種も善でも悪でもないと思います。

「アニマルライツは苦痛、感情を感じる全ての動物に与えるべきだ。しかし、環境に悪影響を与える外来種は池の水を全て抜いてでも駆除するべきだ。」この考え方にどこまで共感しただろうか。私が今回伝えたいことは「外来種=悪い動物」ではないということだ。希少な在来種を守るために外来種であるオオクチバスを駆除したら、むしろ在来種の数が減ってしまったという事例がある。食物網は複雑に絡み合っているので、単純に外来種を駆逐するのは良いことだとは言えないのだ。動物に良いも悪いもなく、アニマルライツの有無も、あくまで人間が便宜上定めた基準に過ぎない。

オオクチバスの話↓

https://twitter.com/rda2015jp/status/1234041251491504130?s=12

PowerPoint スライド ショー - [ディベート動物の権利] 2020_05_20 15_59_28

動物の権利(アニマルライツ)に関する哲学の話を紹介します。友人に聞いたものです。


哲学史から見た動物の権利

(Stephen Law(2007) “The Great Philosophers the lives and ideas of history’s greatest thinkers”, Great Britain: Quercusを参照)


1. ジョージ・ベンサム(1748-1832)
哲学史上、初めて動物にも人間と同じ権利があると主張したのがジョージ・ベンサムである。
デカルトやカントは、動物には人間のような理性がないことを理由に、動物の道徳的な価値・権利を認めなかった。これに対してベンサムは、道徳的価値・権利の有無を決定づけるのは理性ではなく感傷性(the ability to suffer)であると考えた。理性が道徳的価値・権利の有無の条件であるとすると、理性を未だ持っていない幼児や精神疾患を持つ人たちに道徳的な価値・権利がないことになってしまうからである。

2. ペーター・シンガー(1946-)
ベンサムから時代を下ること約2世紀、動物と人間の権利の差に注目した思想を展開したのがアメリカのペーター・シンガーである。
私たちは(多くの国で)殺人を厳格に禁じているのにもかかわらず、動物の屠殺は全く禁じていない。私たちは近年動物の権利に敏感になってきているのにもかかわらず、いまだに動物の権利と人間の権利との間の区別を自明視している。
シンガーは、このような区別は実は道徳的には正当化されえないと主張している。
例えば、子供が大人のように運転する権利・投票する権利を持たないことは道徳的に正当化されうる。子供は大人のような判断能力を未だ持たないとみなされるからである。
しかし、動物を殺すのは問題なくて、人間を殺すのは禁じられているという事態は、道徳的に正当化され得ない。生存権はその個体の道徳的権利の最も基本的な権利であり、それが否定されるならその個体はいかなる道徳的権利も持たないことになる。しかし、道徳的価値・権利の有無が感傷性の有無で決まるとすれば、動物もまた人間と同じように道徳的権利を有していなければならない(ベンサムの議論を参照のこと)。動物が道徳的権利を持っているならば、その基本となる生存権も当然彼らは有していなければならない。したがって、動物が殺されることは道徳的に不当である。
とはいえ、事実として私たちは他の生物を殺すことなくして生き延びられない。だから私たちは、「道徳的・理性的な人間が動物を殺す」という行為をいかにして正当化できるかという喫緊の課題をなんとかして解決しなければならない。
この課題は、今もなお解決されないまま私たちの前に横たわっている。


最後に、アニマルライツの定義にある「痛み」「苦痛」について以下の本から抜粋しました。

苦痛

動物に権利が必要な理由の一つとして、苦痛を感じることがあげられる。ある生き物が苦痛を感じない場合、感じた苦痛を外的表現できない場合は権利を与えられるのか。苦痛を感じない人間には人権がないのか。それでは、痛みを感じない病気を取り上げてみよう。

先天性無痛症という病気がある。あるナトリウムチャネルの欠如により痛みを感じない病気だ。触や圧の感覚、温度感覚などの知覚は保たれており、痛みだけが感じ取れない。生命のとって重要な警告信号である痛みを感じ取れないと、内臓の病気に気づけなかったり熱いものを触り続けてしまったりすることで早死ににつながってしまう。

このように、人間でも痛みないしは苦痛を感じない人もいる。この例は病気であるが、種全体が痛みを感じない方向に進化した生物がいるかもしれない。動物は自らが権利を欲してるわけではないから、権利を与える動物と与えない動物の区別は簡単ではない。

では、続いてどうやって感じた痛みを他者に伝えるかについて触れておこう。
言わずもがな、どうやって感じた痛みを他者に伝えるかというのはとても難しい問題だ。痛みは主観的な感情で他者と共有することはできないので、どんな痛みを感じているか伝えるのは簡単ではない。ましてや同じ言語を使うことができなければなおさらだ。

人間の痛みの測定方法には二種類ある。主観的測定法と機器を用いた方法だ。まず、主観的測定法について。

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次に、機器を用いた方法について。客観的な痛みの診断は適切な治療に欠かせないが、現状では実用的な方法として繁用するには至っていない。

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先述のディベートで、動物が苦痛を感じているかどうか人間は認知することはできないと啖呵を切ったが、実際には動物、特にラットが痛みを感じることがわかる実験がある。専門的すぎるので、即興ディベートでは知らない、信じられないとしらを切っても問題ないだろう。

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