⑩僕が落下してもヘアピンは浮上しない/outside

 フォガティは、フォガティだよと言った。意味が分からない。そして隠し持っていた拳銃で僕を撃つ。風穴が開いた。口からごぽっと血が溢れる。弾丸の摩擦で焦げた肉のにおいが漂う。僕をかばった園原が力なく僕にもたれかかる。

「なぜだかはずしてしまった」

 そしてきっきっとフォガティは笑う。声が反響する。僕は園原の身体から力が抜けていくのを一番近いところで感じている。力が無い感じだ。

「それ、もう一発はなつよ」

 脈絡の無い麻薬中毒者のような微笑で拳銃を構える。僕は園原を突き飛ばす。そしてそこを弾丸が通過する。ごめんなさい。僕は涙をこぼす。園原がかわいそうで仕方ないから。謝るから、ごめんなさいの涙を流す。

 耳元を銃弾が掠める。遠くのほうで残響がする。金属と金属がぶつかって飛び散る音。

「そうれ。もっとアクセントがないとだめだよ。死ぬよ」

 フォガティは何度も打つ。僕は貧弱な身体でバスタオルみたいな園原を抱えて逃げる。それを後ろから銃弾が襲う。フォガティはわざとはずしている。でも僕は怖いからやっぱりだめだ、振り向けない。もしかしたら園原に流れ弾が行き着いているかもしれない。そうなっていたら僕はどうしたらいいんだろう。ああ、どうすれば。震えが止まらない。永い初期微動にさいなまれていく。これは悪夢だ。銃弾の中を一生這いつくばって逃げ回って、ねずみみたいに、実体の無い命におびえながら、僕はどうにかなってしまうんだ。

 園原の腕は僕に力強く握り締められ鬱血している。でもまだ血が有る。それだけが救いなのだけれど、このときの僕はおそらくそれに気付いていない。ラプラスと友達の僕だけがそれを知っている。

 フォガティの声がどんどん遅く後方に押し出されていることに気付いた。僕ははっとする。その瞬間に虚脱感が押し寄せ途方も無く僕を襲い、地面に縫いつけようとする。熱いからだが僕を眠りにいざなっている。でも僕の腕の中には園原がいたからそうもいかなかった。僕は園原が好きだから、そうもいかなかったんだ。だから逃げる。犯人に逆襲される探偵のように逃げ散る。うしろから遠い残響が聞こえるトリガーハッピーが狂ってる。怖いんだ。

 今まで一本道しかなかったけれどもようやく曲がり道が出てきた。僕は安堵する、ようやくこの悪魔のような音の追従から逃げ切れるのかと思うとよだれがでてしまう。しまりのない口元でごめんね園原。

 曲道を抜けると扉があった。僕は迷わずその扉を引く。光が差し込み、僕は重力に見放された。

 平衡感覚がひっくり返った。僕は風が吹き始めたのを間近で感じる。それは柔らかな風ではなく、僕を難聴にするくらいの激しい風。僕たちは下に落ちていった。扉の向こうには落下があった。僕は空中でもがく。ごみが舞うように僕はくるくる落ちていく。シーンが流れていく。


「園原!」

 僕は彼女の名を呼ぶ。そこにいることを確かめずにはいられない。僕は怖いときに彼女の名を呼ぶ。腐り果てるような世界でも鎖が照るような明るさでも彼女の存在を僕は確かめたい。

「園原…!」

 僕は落下していく。

 その中で彼女の存在が尽きていこうとしていることを知る。僕は力なくなっている。君の意識が遠のく瞬間をまじまじと聴いている。

 園原は彗星のように身を灼かれていってる。血の軌跡が赤いオーロラとなって彼女の身体を幾重にも包んでゆく。それは繭のように彼女を包んでいく。僕はそれを間近で見ていることしかできない。羽ばたくことも傍に行くことさえも許されない。

「ねえ」

 囁くような僕の叫びに彼女は応えない。血が嘘みたいに舞ってる。鉄のような風が暴れる。血の利によって僕は視界を遮られて行く。冗談みたいだ。

 僕のか細い呼びかけは僕にさえ聞こえない。風が強くて何も聞こえない。血の筋が彼女の全体を包んでいた。後は顔を残すだけで、ほとんどなにもない。僕はというと暗闇とむせかえる血のにおいであり方を見失っている。

 生きてる? と園原が言った。消えてる声だ。でも良く届く。真空に音楽を教えてあげる声。よくとおる。

「きみのおかげでいきているよ」

 ごみみたいな僕だけど、君のおかげで生きてるよ。

「そんなこといわないの」

 血の繭に包まれた彼女は微笑をたたえた横顔を僕に見せる。くるしそう。でも僕はそれだけでいいかなって思ってしまう。こんな状況なのに。ゆるされるだろうか。

「まあでも生きてるならいいんだ」

 なんだか僕みたいなしゃべり方をする、と僕は思った。風切音が耳に付く。いやに耳に付く。

「シュイロのところに行ってくる」

 園原の横顔はもうない。キュビズムでも無理。描けない。でも声はする。

 明かりも点けずにどこにいくの? と僕はないている。涙が上にこぼれる。迷子になってしまうからかえっておいで?

「ううん」

 園原の声はほとんど消滅していた。それどころか彼女が線香花火のように儚くなっていた。僕は目をこする。網膜がぼやけていって死にたい。存在が儚い人は悲しい。

「ヘアピンありがと」

 彼女の意識はまだ何か言いたげだった。でもその前に消えた。繭が彼女を完全に覆い隠した。軽く埃のにおいがする。血の繭は空中の一点で収束し、そしてどこかへいった。いってしまった。連れ去られた。

 僕はおちてゆく。浮上は無い。行き先は分からない。風が強くて何も聞こえない。僕たちは離れないことから離れた。


 僕は長い後悔の後、地面に叩きつけられる。全身がばらばらになるがもともとほとんど死んでいるので問題ない。このくらいなら平気なんだ。銃で撃たれたら死ぬけど。

 死ね、腑抜け。

 臥した身体、疎ましい。臥しているからだ、お前がいつまでもそんな風になっているからだ。

 そして遠い残響の後、上からヘアピンが降ってくる。僕の傍に落ちる。砕けなかった。分かる。これは持ち主に似て強いからだ。握り締めて立ち上がる。長い立ちくらみが襲う。くらくらする。まるで手ほどきを受けていない急病人みたいじゃないか。そんなくだらない長い比喩を思いついてしまうほど、僕の精神は平静を装えている。偽装工作なら完璧。それでいままで生きてきたし、自分を思い込みと言い聞かせで欺くことくらいわけない。

 歩き出す。

 今度は隣にいない。だけど僕はまず進むことにする。浮上は無い。前に潜っていく。僕はそれに100年後気付いた。


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