⑪潜水的病/inside

「もういいぞ」
 ぷつんと切られる。
「よくやった」
 以遠さんの声が上からする。僕はしばし良く分からない。きょとんとする。
「お前の作り出した虚構でタマクラが満ちた」
 以遠さんが満足そうに言う傍らで、黒星さんが「たいしたもんだよ、ほんとうに」と素直に感心している声が聞こえる。「ろくなやつじゃないけど、虚構の精度にかけてはお前はすげえやつだよ」と愛の無い言い方をする。
「私もそう思う」
 ちゃんとここで働かないか?と以遠さん。でも僕はいいえと言う。やっぱりここは好きじゃない。この白い部屋と、この機械がやっぱり苦手で。
「そうか」と以遠さんはさっぱりしている。黒星さんは苦々しげな表情。たぶん。
「なんにせよ、よくやった。今日はもう休んだほうがいい。近くのホテルに部屋を予約しておいた」
 いえ、遠慮しますと僕は断って立とうとしたがすぐに倒れた。身体に力がうまく入らない。三半規管と半月版が仕事をしていない。
「お前は自分を見ていないから分からんかもしれんが」と言葉をいったん区切り、「潜っているときのお前はあまりにも集中していて死んでいるようだったぞ」まるで潜水病のようだった、と黒星さんは言う。
 僕は思わず冷や汗をかいた。タマクラに意識を集中し(預け)すぎてそのまま帰ってこなくなった事例はいくらでもある。危うく僕もその仲間になるところだったというわけだ。
「とにかく今日はもう休め」まあいやでも部屋に押し込んでやるがな、と付け足す。癪だけど僕はその言葉に従うことにした。体力の無いところをユピテルに襲われるかもしれない。そうなったら笑えないし。
そうしているとなんか白い装束に包まれた人間がやってきて僕を担架に乗せる。なんかこんな宗教あったな、と僕は思った。お疲れさまです、とその白装束は言った。「後は任せてください」
 まるで急病人じゃないか、と僕は思った。

 僕はすぐにでもホテルに行って身体を休めたかったのだが、結局病院に行くことになった。念には念をということらしい。これは以遠さんからのお達しだった。あの人にしてはやさしい決断だった。まあ彼女が欲しているのは僕の虚構に対する才能だから、別に僕を欲しているわけじゃない。欲する、なんて親密な言い方は気持ち悪いね。
 僕は白装束たちに周りをガードされながら車に案内された。そして病院まで連れて行かれる。そこはどうやらIRSの息がかかった病院らしい。確かにタマクラのことなんて普通の病院には持ち込めないから、こういった専属の病院は必要なんだろう。
 僕は外の景色を見ながらぼんやりと考える。僕に小説の才能はない。それは知っている。その代わり虚構を生み出す才能はある。まさかそれを認められる日が来るとは思ってなかった。以遠さんたちに会うまで、僕にはおよそ人間らしさというものはなかったし、獣みたいな存在だった。その点で以遠さんたちには感謝している。でもエイミーが発狂したのはやっぱり彼らのせいだ。エイミーが川に浸水してしまったのは僕に非があるけれど。
 そうこうしているうちに車が止まる。病院に着いたのだ。
どうぞ、と白装束にドアを開けられ病院を見て愕然とする。
「ようこそ」
 とパーカーが仏頂面で立っていた。
       
「IRSの関係者ならそう言ってくれればよかったのに」
 とパーカーは機器を弄っている。僕は集中治療室みたいな部屋に通され、そこのくたびれた硬いベッドに横たわっている。僕はそこに寝ているだけだがそのベッドからはたくさんのチューブが伸びており、同じようにコードと絡まりながらパーカーの弄る機器につながっている。
「君もIRSの関係者だったなら言ってくれればよかったのに」
 おあいこだよ、と僕は言う。パーカーはそこでかたかたと機器を弄る手を止め、少し意外そうに顔を上げる。
「なんだか感じが変わったね。前会ったときとは別人みたいだ」
「そうかな」
「そうだよ」
 パーカーはふっと笑って作業に戻る。
「IRSでの仕事は人格を変えてしまう程ハードなのかい」
「ある種そういう側面はある」
 僕も苦笑して答える。
「やっぱりね。そんなブラック企業にいるよりかは」
 パーカーはそこで機器を弄るのをやめ、終わりだよと僕に伝えた。
「ここでこうしているほうが性にあっているかな」
「ここでの仕事は好きなの?」
 僕がそう問うと、パーカーは少し顔を曇らせる。
「悪くは無い。でも」
 そう言ってパーカーは黙る。部屋に沈黙が訪れる。僕はまずいことを聞いたなと思い話題を変えることにした。
「そう言えばぎんぶちのことだけど」
 そう僕が言った後のパーカーの顔に僕はおびえてしまった。パーカーの顔はひどく何も無かった。何の表情も無かった。のっぺりとした中性的な造形がそこにあるだけ。マネキンよりもなまじ生気があるだけ不気味だった。あまりの迫力と違和感の混在に僕は思わず口をつぐむ。
「ぎんぶちがなんだって」
 パーカーの口ぶりはいたって平静だった。しかしそこには見えない力が働いていた。何かを押し殺した消極的で強力な意志が。
「いやなんでもないよ」
 僕が即座に否定すると、パーカーの顔から力が抜け、いつもの中性的な魅力的な顔に戻る。
「この前も言ったけどそんな人はここにはいない」
「そうだったね」
 僕はその言葉をおとなしく飲み込むことにする。パーカーは機器を片付け僕をベッドから降りるように促す。
「異常なし」
 そう僕に告げるとパーカーはさっさと部屋から出てしまった。パーカーが僕の傍を通った時、なんだかいい香りがした。地球上にはないような神秘的なにおいだった。
「もう行っていいぞ」
 そう言ってパーカーは部屋を後にする。パー、カーと僕は声をかけるが、取り残される。
      
 エレベーターに乗る。そして頭のおかしい男にパーカー呼ばわりされた私は危機感を覚える。やっぱりあいつは危険だ。ぎんぶちのことを知られている。なまじ頭がおかしい分、行動が読めない。IRSも変なやつを仲間にしたものだ。私はそうひとりごちる。
 エレベーターが最上階で停止する。そして数秒の後さらに上昇する。そして再び停止する。扉が開く。白い空間。
 私の弟はそこにいた。ふかふかで天使の羽のようなベッドに横たわっている。たいていそういうところに横たわるのは鼻持ちなら無い太った権力者と決まっているけど、そうではない。弟はやせていた。栄養は点滴で摂っているがそれはおよそ健全とは言いがたい。
「コギト」
 そして純粋だった。その純粋さに触れたくて弟の髪を撫でる。色素が欠乏して白くなってしまった髪の毛は御伽噺に出てくるユニコーンのようだった。
「ん」
 とコギトは目を覚ます。どうやら起こしてしまったようだ。
「身体の調子はどうだい」
「まあまあです」
 コギトは答える。
「園原は?」
「どこか行ってしまいました」
「そっか」
 またか、と私はうんざりする。園原はコギト夢を聞いた後、彼が眠るのを確認した後によくどこかへ消えてしまう。コギトの夢を聞くとはしゃぎたくなってしまうらしい。せめて私に一言あって欲しいものだ。
 コギトはうーん、と背伸びをする。その仕草一つで私の顔はほころぶ。まるで動物のような無駄の無い、無意識でわざとらしくない仕草だからだ。ガゼルが草を食むようだった。この子はとても、動物に近い。昔はそうではなかった。もっと人間らしかった。でも潜水病にかかってよく眠るようになってしまってから変わった。口ぶりも他人行儀になってきたし、話し方が少し変だ。あの、私のことをパーカー呼ばわりした男みたいに。
「園原に夢のことをはなしていたのですが」
 コギトはそう言って私のことを見る。黒いメノウのような瞳に私は見入る。幸い私との間に血のつながりまだ感じていてくれているようだ。そのことにうれしくなる。
「とても楽しいと言ってくれました」
「よかったね」
 私は微笑む。コギトの無邪気な笑顔に。
園原とコギトはたぶん恋人だ。そしてたぶん違うのかもしれない。私にはそれ以外に二人の関係を言い表す言葉を知らない。ただ恋人というにはお互いを知り尽くしている。兄妹のようでもある。いずれにせよとても接近した関係だ。
 二人は共に潜水病だ。思春期を迎え、すぐに発病した。
私は潜水病にはかからなかったが、その日、父がピアノを弾いていた日、コギトは夢精し、少年になり、私の誕生日にパーカーをプレゼントした日、潜水病にに侵された。潜水病は一日の大半を大食いのバクのように眠り続ける病だ。そして例外なく夢を見る。それはとても密度が濃い夢で、起きた後に現実との区別が付かなくなる程だった。世界でもほとんど発症例もなく、潜水病というのも俗称だった。そんな都市伝説のような病気に一介の学生だった私にはどうすることもできなかった。早くに母を亡くし、父も失踪している私には金もコネも無かった。ただ弛緩したコギトの垂らす糞尿を処理するしかない日々を送った。
そんな生活に時疲れきったときユピテルはやってきた。黒装束のやつらが私とコギトの家にやってきて、コギトを私から連れ去った。そして黒装束の一人が言った。
「お父上が呼んでいる」
 そう言って呆然とする私を車に押し込め妙に四角い病院に連れてこられたのだった。そして私はそこで半ば強引に受付とコギトの世話を任された。そのとき父からメールが来て(アドレスなんか知れないはずなのに)、そこにはユピテルのことが書いてあった。曰く、コギトの見る夢から虚構を取り出すこと、それを支援する組織がユピテルなのだと。虚構を取り出してどうするのかは書かれていなかった。だけどそんなことはどうだってよかった。別に怒りに震えることもなかった。父などもう記憶の片隅にしかない。メモの書き留めのような存在だったし、それよりも感謝したくらいだ。コギトを救ってくれるのだから。
 そして私がコギトの世話をし始めて七日目に園原がやってきた。コギトは容態が安定して起きている時間も少しではあるが長くなってきた時だった。
 園原も潜水病だった。そして潜水病だとは思えないほど明るくて快活な子だった。ぎんぶちめがねが似合っていて利発に見える。病気自体もコギトほどは重くない。たぶんどこにいるとも知れない父がコギトの話し相手にと思って寄越したのだろう。あるいはなんらかのデータが取りたかったのかもしれない。偽善的で独善的で、とにかく私の中の全ての善に反している父だったらやりかねない。でもそんなことはどうでもいいんだ。コギトがうれしそうにたのしそうにしていたから。
 コギトは長い夢から目覚めるとその夢をすぐ園原に話した。園原はその夢をとても心地よさそうに聞いていた。それは詩人のリュートの音色を聞く小鳥のような場面に見えた。そして園原はコギトが眠るといてもたってもいられなくなって、私の目を盗んですぐ外出してしまうのだった。
 二人とも自分たちを繭で覆って外界との接触を断っている。または歯車のように補完的に互いを動かしあっている。私にはそのように見えた。そしてそれは繊細で白くていつほころぶともしれない危うい関係だ。私にはそれが怖い。まるで雪の降る街にいる恐るべき子供たちだ。それが彼らなんだ。
「それにしても」とコギトは首をこきこき鳴らし自分の後頭部が座っていた枕を見やる。「この治療はいささか肩が凝ります」
「ごめんな」
 タマクラ。その枕が使用者の虚構を蓄えるデバイスだということをその虚構のエネルギーが何に使われるかを、コギトは知らない。コギトの夢を、……虚構を、私は、……父は、利用している。そしてそのことをコギトは知らない。純粋だから。知ろうとしない。でもそれはフィロソフィアなんだ。
「パーカー」
 私は不意の言葉にびっくりする。コギトが笑う。
「似合ってます」
 コギトは私のパーカーの裾をつまむ。私のよわみもつままれる。
「ありがとう」
 パーカーのつままれたところがしわになる。私はコギトの指を握る。
「またね」
 私はコギトに別れを告げその精神的な無菌室から立ち去った。
             
 コギトはパーカーを見送り再び横になった。そしてシーツに覆われた自らの身体を見る。既に半分が消えていた。
「ごめんなさい」
 園原。そうつぶやき、彼は殻を破り、木星へ旅立つ。

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