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「情報」とは何か。

これはネット上ではいくらでも転がっている、有象無象を問わず知ることで「知った気になるもの」です。(ただ経験はネットの知識だけでは身に付くとは限りません)

情報を流すのはマスコミであり私たちでありネット民であり有識者であり外野でもあり…まあ、人が理解できるものであればだれでも情報というのは流せます。また、受け取るということも同じです。

情報は人間だけではなく動物だってなんらかのサインは流したり受け取ったりします。何かを知るときに情報は欠かせないものなのは、当然の話です。

ただし、流す人や受け取る人にはそれぞれ質というものが存在します。質が悪いと、誤解を生んだり耳から耳へと流したりします。また、嘘を信じ込むことでなんらかの悲劇を引き起こしてしまうこともあります。

間違いは誰でもあるものですが、情報を読み取って判断するという質は高めておくにこしたことはありません。

そういうのは当たり前の話なのですが、なんか当たり前すぎて軽んじているのか、多くはできていません。まあ僕もできているかは怪しい思いますが。

ネチケットとか言う言葉は、ネット黎明期には確かにありました。ネットでのマナーです。今たぶんこれは死語です。住みにくい時代であり、そして日本という国においてはどんどん自分らの手で、僕も含めて自分で住みづらくしているという印象しかない。

2000年代が、なんだかんだで平和な時代でしたね。今は、個人とそのまわりだけ考えるのではなかなか生き残れん状況と感じます。

ではどうする?です。日本で生きる以上は、嘆いてもしょうがないでしょう。変えないとならない。どうやって変えるのか。あるいはどうやって変わろうとするのか。そしてできることは何か。こっからです。

まあ、具体案をいきなり言うても、しょうがないのでしょうが。

まず情報をどうやって判断するか、そして評価するか。この分析の繰り返し。分析したものをどうやって世間に出して、世間に投げかけるかですか。よければよし。悪くても向き合えるものは向き合う。向き合えないケースは無視。そんだけ。これは、なんのジャンルでもそうです。

マスコミだって情報を記事や社説という形など、あるいは広告などでも流しているのは、です。そしてネット民だって流しているのは、当然人なわけです。猫や犬などペットには文字はなにかの奇跡以外では打てません。これは忘れないようにしたいところ。

理性持った人が送受信しないと、ならないわけです。



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