「そもそも」に立ちかえる(2022/7/6)
記事の長さはおよそ1,900文字。2〜3分程度で読めます。
記事のポイント
なぜ、私たちは学校に行く必要があるのか? そもそも本当に行く必要などあるのだろうか? 新型コロナウイルス禍が始まって以来、この問いはかつてないリアリティーを持って日本社会に広がりつつある。
今や私たちは、学校に子どもを集めなくても、すべての子どもの学習を保障することが可能な時代に突入しつつあるのだ。
私自身、これまで長らく、教育システムを大きく転換する必要を訴えてきた。すなわち「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級生の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」システムの転換である。
この150年間続いてきたベルト・コンベア型のシステムこそが、いわゆる「落ちこぼれ」やその反対の「吹きこぼれ」、不登校やいじめなど様々な問題の元凶になっている。
「同じ年生まれの人たちだけからなる集団」は、学校の外にはおそらくほとんど存在しない。
学校は今、その本来の存在を問い直されているのである。それは一体何だろうか?
人類が平和に、自由に生きたいと願うのならば、私たちはまず、お互いの自由を認め合う必要がある。そして、一部の支配者ではなく、対等な市民たちの手によって共に社会を築いていくほかにない。
これを「自由の相互承認」の原理という。現代の民主主義の最も根幹をなす考えであり、人類史上最も偉大な発明の一つであるといっていい。
「自由の相互承認」を実現するための、最も重要な制度。それこそが学校教育にほかならない。
この本質に立ち戻り、学校教育を再構築していこうという試みは、既に様々な形で全国に広がっている。
違いを認め合い、「自分たちの社会は自分たちでつくる」市民を育むためには、子ども自身が「自分たちの学校は自分たちでつくる」経験をたっぷり積んでいく必要がある。
校則見直しはあくまでも一例である。重要なことは学校が、大人も子どもも、お互いを対等な存在として認め合い、対話を通した合意形成やコミュニティーづくりの経験を積む場になる必要があるということだ。
民主主義の土台としての学校。今こそ学校は、この自らの本質に立ち戻ることを求められているのだ。
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・150年間続いてきたベルト・コンベア型教育システムから、
・「自由の相互承認」を実現するための制度としての学校教育
への転換を訴えられている記事でした。
執筆者の熊本大学准教授の苫野さんのことはこの記事で初めて知りましたが、考え方にはとても共感できました。
私は社会の大きな流れとして、多くのものが「One to One」に移行していくと考えています。
(One to One:一人ひとりのニーズや好みに応じた商品・サービスの提供)
工業製品では「T型フォード」式の少品種大量生産から、多品種少量生産が進んだ。
AmazonなどECサイトでは、「レコメンデーション機能」により、個人ごとの閲覧・購買履歴をもとに、個々人が興味を持つ商品が表示されるのが一般的になった。
近い将来、医薬品の世界では個人のDNAに基づく個人別の薬が処方されるようになる。
このような大きなトレンドの中で、教育もテクノロジーの力を借りながらOne to Oneの方向に移行していくのは必然だと思います。
これまでのやり方は、採用された当時のいろんな条件を考慮したなかで選ばれた最適な方法だったと思います。
教育でいえば、150年前には一箇所に集めるしか教える方法はなかったでしょうし、先進国に追いつくためには先進国の”出来合いの答え”を覚えることが重要だったと思います。
しかし時代も変わり、人々の価値観が変わり、テクノロジーが変われば、いつまでもこれまでと同じやり方が最善の方法とは限りません。
時代が変われば、最善の方法は変わる。
これは何も教育に限った話ではありません。
社会でも経済でも、そして政治でも、時代の大きな転換期には最善の方法は変わります。
場当たり的に対処するのではなく、
・「そもそも何のために存在するのか」を原点に立ちかえってゼロベースで考え直し、
・「実現するためにはどんな方法が良いか」
を考えることがとても重要ですね。
皆さんの周りで、
原点に立ちかえって考えたほうがいいと思うものには、どんなものがありますか?
本投稿は日経新聞に記載された記事を読んで、
私が感じたこと、考えたことについて記載しています。
みなさんの考えるヒントになれば嬉しいです。
「マガジン」にも保存しています。
「学びをよろこびに、人生にリーダシップを」
ディアログ 小川
美味しいものを食べて、次回の投稿に向けて英気を養います(笑)。