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「弱さ」から自己受容について考える

こんばんは。
一度Bloggerで書いていることなので、あちらよりは迷走加減はマシになると信じて改稿しながら投稿していきます。

それでは、さっそく。

自分のことをいつまで好いていられるかで幸福度が変わる

――と、思います。

本当の意味で自分のことが好きかどうか。

これが本当の意味でのシアワセをつかめるかどうかに直結すると思います。

ほんの少し前まで彼氏と付き合っていたのですが、別れた瞬間は悲しくて、心が締め付けられて、ちょっと自傷行為をしたりしてました。
なんで別れたのかというと、私と彼氏のちょっとしたいろいろなところが合わなくて、傷つくことが多かったからです。
好きだったけれど、自分のために別れた、という感じ。

「自分のため」に大切なものを切り捨てるという選択ができて、その結果、本当に心が軽くなったから、「お、自分できるやん」と思ったわけです。

その結果、依存先はいなくなりましたし、夏休みを孤独に過ごしていますが、今までより安定した精神で過ごせています。
自分のことを今までよりも認めることができたんですね。

自分のことを、まだ、大好き!とは言えないですが、「嫌い」の割合が減っただけで、心が詰まったり、怒りを感じたりすることが一気に減りました。

自分の弱さを見つめる=自己受容

自分が満たされていないところ、つまり弱いところを見つけては改善策を考えるたびに、まずは自分を受け入れることが大切なのだというところに必ず行き着いています。

「自分は生きていてはいけないからうまく生きている感じがしない。失敗が頭に残る。失敗したら全部壊れていく気がする。」
「素の自分を見せたら嫌われるから周りに合わせてばっかり生きている。だから疲れる。どうせ会っても話すことなんてないし、どうせ会うことがない人たちの連絡先は消して人間関係断ち切ってしまおう。」
「自分のことを認めてほしい。生きていていいっていう確信がほしい。」
「自分だけでは生きていけない。なにかに縋らないと生きていけない。縋った結果、命がなくなったとしてもかまわない。」

全部、”今の”自分を受け入れることである程度は生きづらさが緩和するような話ばかりだと思うのです。自分を肯定する前に、自分を受け入れないと、何か起こったときにすぐ肯定感が離散してしまいました。

たとえると、中身が見えないコップに液体が満タンに入っていて、表面だけ舐めて液体がわかったような感覚になります。ですが、次に新しい液体が入ってくると表面の液体はコップからあふれてしまって、何が入っているのかわからないコップに戻ってしまいます。

自分自身、自分を変えようと一念発起してからこんなことを延々と繰り返していました。

常に希死観念がつきまとうような精神状態で、その根本の原因がどこにあるかもわからないまま自分を認めてみては、悪いことが起こって、自己肯定感を上げようとする前よりも自己否定が悪化することさえありました。

とにかく自分を知ること、そしてその自分をそっくりそのまま認めてやらないと、あっという間に瓦解してしまいました。

スカスカの地盤に家を建ててもちょっとしたことで傾きますよね。
勉強はよく基礎から、と例えられますが、精神についても同じだと思うのです。

自分を知っていく過程は本当につらいです。自分が忘れていたつもりだったトラウマにぶち当たることもあります。そもそも原因が思い出せないこともあります。

弱さに気づいたところで、どこをどう直したらいいのかわからないほど「自分の一部」になってしまって、余計に自分が嫌いになることだってざらにあります。
本当に不安定になるし、つらいことです。
すればするほど自分が嫌いになるから、本格的に自殺を計画したり、(体育で腕が見えるからと今まで切らないと決めていたところまで)ためらいなく自傷したりする、ということになります。

本来は精神科の医師やカウンセラーと一緒にすることなのでしょうが、私のように病院が嫌いな人やそもそも自分の状態に病名がつく可能性があることすら認識していない人もいると思います。

私の場合、鬱か適応障害だと診断されるだろう、というところまで精神状態が悪化することがありますが、学校に行ってなるべく何も考えなくていいように生活しているといつの間にか収まっています。なので、カウンセラーにかかったのは一回だけ、精神科には一度も言ったことはありません。

そのときも、自分の状態が甘えだと言われるのが恐ろしくて、病院にはぜったい行かないと決めていました。

病院に行って診断されないのは恥ずかしいと思ったのです。

「生きる理由を他者に求めてはいけない」
というのが、他人を心の底から信頼できない私が自己受容する過程で学んだことです。
その理由をくれた人との関係が壊れたら、本当に死んでしまおうとしてしまうからです。
死のうとしなくても、心は大量出血したまま次に向かうことになり、傷口をえぐってより深くする出来事が必ず起こります。

依存先を捨てた

依存するということは、それだけで自分を多かれ少なかれ傷つけています。
私の場合は、彼氏といることが毒であり、薬でした。

元カレといると、傷ついたんです。
ですが、生きる理由をすでに元カレに託していたせいで、離れられずにいました。
ケンカのたびに、お互いを傷つけあっていました。

彼氏との別れを切り出したのは私でした。

彼氏と別れる、ということは――別れてなお生き続けるということは、
自分を傷つけるものからちゃんと距離を取るということと、自分の弱さに対して捨てようとする努力をするという2つの意味がありました。

依存している間は楽でしたが、苦痛でした。

依存が楽なだけだったら、そのまま依存していてもいいと思います。

私は、擦り減っていって、依存する体力すら残っていない状況でした。

そのときにちゃんと、「離れる」という選択を持っていたことは自分を褒めてあげてもよかったと思います。

別れるなんてありえない、と思い込んでいた数か月前に比べるとちょっとはよくなったと思うのです。

まだ自己受容は完全にできたわけではないけれど

「自分キライ! 死ね!」
と思うことはまだちょこちょこあります。

ブログを始めたのは、自分の感情と考えていることを整理するためと、ポジティブな言葉に変換するためです。

最終目標は自己肯定をして「生きる価値」を自分に与えてあげることです。


今日はここまでにします。
読んでくださってありがとうございました。

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