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二重人格の神

今日は神の二面性について考えてみましょう。このブログでは何度も取り上げていますが、4世紀以降のキリスト教社会は「暴力の神」を受け入れてしまいました。それは歴史、そして神学を学べば明らかです。何よりも、イエスキリストは愛です。しかし、暴力は愛ではありません。この二面性を受け入れるために独自の神学を作り上げることでキリスト教界はこの多重人格の神を受け入れてきました。

神の義と神の愛
特にこの教えが特徴的なのは、宗教改革者であるルターとカルヴァンではないでしょうか。この「神の義」と「神の愛」は刑罰代償説の基盤となっています。簡単にまとめると以下のようになります。


「神の義・正義」:神は罪人をさばき、殺さないといけない、神は正義だからである
「神の愛」   :神は誰ひとり殺したくない、結果我が子であるイエスを殺した

ちなみに、「聖書的な神の義」とはイエスキリストの存在そのものです。使徒パウロはイエスキリストが神の義の表れだと教えました。つまり、神の義とは「非暴力の神」だったのです。聖書的な教えはさておき、なぜ刑罰代償説は神の義を神の暴力と結びつけてしまったのでしょうか?

NT ライトは以下のように言っています。

「20世紀の悪魔は、神が悪人を裁くことをしなければ、まるでその神は善の神ではないような思想を植え付けた」

彼の解釈によると、「罪人を殺す」=「正義の神」という方程式ができてしまったのは20世紀に活躍した悪魔たちのせいだということです。また彼はこのようなコメントを残しています。

「ある人々は福音についてこのように語ります。あなたはヨハネ3:16には

『神は、実に、そのひとり子をいじめ殺されたほどに世を憎まれた。』

と書かれていると言っているのです。そうは書かれていません。ヨハネ3:16には

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された』

と書かれています。」

さらにライトは虐殺の神を愛だということはさらに酷い結果をもたらすと語っています。私にも虐待を愛という人は精神病としか思えません。

反論としては「違うんです、あなたは三位一体をわかっていない」などのことを言ってくる人がいますが、全くの精神病です。イエスキリストを通して神の性質が表されているということが三位一体の基礎です。そして、イエスキリストは非暴力の神でした。

神は暴力と依存症の二重人格ではなく、神は愛です。

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