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キリストの十字架の解釈は1つじゃない

いつも私はこのブログで刑罰代償説を否定しています。正確にはその神学に表されている暴力の神を否定しているわけです。しかし、イエスキリストの十字架を否定したことはありません。

どの時代においても、キリスト教徒が理解しておかなければならないことは

「私たちはぽっと出の流行りの新説をすぐに追いかけていいわけではない」

ということです。

要点を述べますと、刑罰代償説はキリスト教史においても比較的新しい説だということです。十字架を見るとき、いくつかの側面が見えるのは確かです。このことについてはイクトゥスラボさんというページが細かく記載して下さってます。


こちらにも、その内容を貼り付けておきます。

勝利者キリスト説 (Christus Victor)
この説は、長いキリスト教の歴史において最も強く信じられてきた贖罪論だと言われている。キリストは十字架での死により、罪、死、悪魔などの悪の勢力に完全に勝利し、それらの悪に束縛されていた人類を解放したというものある。罪のないキリストが義なる方として死に、また復活することによって悪の力に完全に勝利したとされる。イエスの死が誰かに対しての支払いだったという考えはなく、人類の解放が主目的であった。

Christus Victorは、1931年に出版されたスウェーデン人哲学者のグスターヴ・アウレンの著書の題名で、この説が、エイレナイオス、オリゲネス、アウグスティヌスなど初期教会の教父たちの間で最も強く信じられていた「古典的」な贖罪論だと論じられている。

身代金説 (Ransom Theory)
この説も初期から長らく唱えられてきた贖罪論の一つである。この説では、人類がアダムとエバの罪によって悪魔の虜とされていたため、神が悪魔に「キリストの死」という身代金を支払って人類を解放したとされる。オリゲネスやニュッサのグレゴリオスなどが、イエスの死を悪魔への身代金として解釈する文書を残している。

この説の問題点は、後述する「満足説」を唱えたアンセルムスが述べたように、悪魔自体神への反逆者であるため、人間を自分のものだという主張に正当性はなく、神が彼に対して支払いをする義務もない、などが挙げられる。上述のアウレンは、初期の教父たちの主張に金銭的な意味での「支払い」は含まれていないと論じた。

満足説 (Satisfaction Theory)
11世紀の終わりごろに、カンタベリー主教で「スコラ学」という学派の神学者であったアンセルムスは、人間の罪によって神の義が損なわれ、その義を回復するためにキリストの死が必要だったと説いた。アンセルムスは著書 “Cur Deus Homo”(なぜ神は人間となられたか)の中で、神の義を強調し、人間の背きの罪によって神の義が求める本来の世界のあり方が壊されたため、義人であるイエスが人類に変わって死に、神の義の要求を満足させたと述べた。

アンセルムスの説は、前述の通り、「身代金」説への反駁という側面があった。神が悪魔に対して支払いの義務があるのではなく、人類が神に対して、行ってきた諸々の悪ゆえに、支払いの義務を負っていたというものだ。この説は、のちの「刑罰代償説」に大きな影響を与えるが、アンセルムスの説には父なる神が御子イエスを罰したという考えは一切ない。

道徳感化説 (Moral Influence Theory)
この説は、イエスが十字架で死んだことにより、人類の中に肯定的な変化が生まれるというものである。イエスの教えとイエスの模範的な生き方によって人間が感化され、今までよりも優れた道徳的な生き方ができることによって新たな社会のあり方が開かれるという。

12世紀に、アンセルムスと同じスコラ学のピエール・アベラールが満足説に対抗してこれを説いた。怒りや厳しさや断罪などの視点で神を見るのではなく、愛の視点で見るということを強調し、十字架の死は罪人の心を変え、神に立ち返らせようとする神の愛の表現であると説いた。アベラール以前も、アウグスティヌスなどの教父たちの著書にも道徳感化説を肯定する内容が見られる。

刑罰代償説 (Penal Substitution Theory)
アンセルムスの満足説は、それまでの贖罪論よりも、人間の罪深さが義なる神との関係を破壊したという側面を強調したが、宗教改革者たち、特にジャン・カルヴァンは、キリストの死を神による罰だと説き、人間の罪を「法的」なものとして扱った。神がその義の性質ゆえに罪を見過ごすことができず、罪を犯した人間は本来神によって永遠の罰を受けるべきだったのを、キリストが代わりにその罰を受けて死んでくださったということである。

現在、多くのプロテスタント教会ではこの説が受け入れられているが、カトリック教会では賛否両論があり、東方教会(正教会など)では全く受け入れられていないのが現状だと言えるだろう。日本のプロテスタント教会でも刑罰代償説が「福音」だと考えられる傾向がある。後述するが、刑罰代償説には教義的、論理的、そして倫理的な問題が多々あり、それを「キリスト教」或いは「福音」として語ることに対する反発の声が近年強くなってきている。

スケープゴート説 (Scapegoat Theory)
イエスが共同体の平和を守るためのスケープゴートとして殺されただけでなく、イエスの死はこの世界で社会的スケープゴートとして殺されてきた全ての人々との連帯の死であり、それによってスケープゴート行為の悪が暴かれ、それに気付いた人間がスケープゴートを生む宗教的な社会形成から離れ、イエスの愛と赦しに根付いた新たな社会のあり方を目指すというものである。

1970年代に文化人類学者のルネ・ジラールによって提唱され、神学者のジェームズ・アリソンらによって広められている。人間の暴力性に対し、神が人となり、非暴力を貫きながら殺されたことで人間の暴力を打ち破り、復活によって人間を暴力から離れた平和な社会のあり方へと導くという考えから、「非暴力的贖罪」(non-violent atonement)とも呼ばれる。比較的新しい贖罪の考え方だが、社会に対する倫理的なメッセージゆえに、キリスト教内外から注目を集めている。

いくつかの説がありますが、この中でもキリストらしくない暴力の神を描いている説があるとすれば、刑罰代償説でしょう。満足説も読み方によれば血を求める神が描かれているかもしれません。刑罰代償説を信じながら信仰生活を送っているキリスト教徒の方と接するといつも神のさばきを恐れて生きている方が多いように思います。


愛の神ではなく、暴力の神を信じてしまったがために、精神的な負担がかかっているのかもしれませんね。

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