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Midsummer's pray

多分、どんなジャンルであっても「推し」がいればSNSとは上手く付き合わないといけないな、と思う。発信も受信も、いずれも。気分が落ち込み易ければ、尚更。

自分を守るためにも、大事な人達を守るためにも。
当たり前のことだけれど、大切なことだ。
長らくネットに親しんでいて、基本的なリテラシーは持ち得ているように見えても、傷付く瞬間、傷付ける瞬間はSNSの海の其処此処で、浮かんだり沈んだりしている。

SNSって、目盛りがはちゃめちゃな物差しみたいだ。
比較対象はいくらもあって、皆あたかも「自分が基準」みたいな顔をしているように見えて、その実は誰も基準なんかではないのだろうに。

でも、どういう訳だかそのめちゃくちゃな物差しを必死に宛てがって、まだ足りない、まだ全然十分じゃない、とそう思ってしまったりする。これは、私だけだろうか。私が誰かしら「推し」を見付けると、いつもそんな風に、満杯にならないマグカップみたいになってしまう時期がある。どんなジャンルでも。
でも、少しだけ今までと変わったところもあった。
それはひとえに今の推し達、我が君とふーちゃんが変化を厭わない姿勢と同じくらいに、変わらずに在ってくれていることに起因している。
見た目が変わることも、勿論、意見や考え方が変わることもいくらもあるだろうけれど、そうではなくて。
これはとても自己中心的な発想であることを承知で言うなれば、いつでもふーちゃんのシャープな聡明さや、秋の日の木漏れ日のような優しさ、我が君のクリエイティブさ、言語化能力の高さや、チャーミングさ、そんな、私が心から敬愛するその側面が、変わっていることがないから。
一言で言えば、良い意味で変わらない彼等。
そんな信頼出来る推し達と出会えたからこそ、自分のことを全て受け容れることは難しくても、自分の物差しで以て、どうにかこうにか世界との距離を測りながら歩いている。

ここまで、私の話ばかりで申し訳ないです。

何を書きたかったのか、と言うと。多分、表現するのであれば「ままならないこと」なんていくらもあって、それに振り回されることは弱さでも何でもないんじゃないかな、と感じているということ。きっと、この「ままならなさ」はセクシャリティやジェンダー、年齢や、環境、立場、推しの所属エトセトラ。色々なところに、身体的にも、精神的にも生じていると思う。

誰かにとってはちょっとの努力や我慢でも、違う誰かにとっては高い高い障壁かもしれない。ここで発生する事象はいつでも相対的なものだ。相対性、人それぞれ、と言ってしまうと変わらないことも決まらないこともあって、何でもかんでも「人それぞれだから」で済ますことはよろしくない。

でも、あなたの気持ちを支える、いわゆる「推し」、「推し活」において、「ままならなさ」のために潰れて欲しくない、誰にも、と最近、特に思う。勿論、ままならずにいることを全肯定されてしまうことは、それはそれで辛いだろうし、現に私も「何も出来ない自分」をそのまま肯定されると、それが自分の価値のように思えて本当に沈んでしまうから。出来ることを、順にやっていければ良い無理に爪先立つこと、全力疾走することは、誰もしないで欲しくなってしまう。自分の体力、金銭、時間、感情。それを何に、どう費やすかなんて心無い、想像力に欠ける言葉によって決められるものじゃないと、私は考えている。

無理はしないで、も、頑張っても呪いになってしまい得るから。
誰にともなくこうやって、半ば自分に言い聞かせるように言葉にしてみる。