「先輩なら、きっと大丈夫ですよ」
「お、やっぱりここにいたね」
立て付けの悪い図書室のドアが軋んだ音をたてたかと思うと、聞き慣れた声がした。振り返るとそこには「よっ、後輩くん」と手をヒラヒラと遊ばせる先輩が立っていた。
「久しぶりですね先輩。どうしたんですか? もう冬休みですよ。もしかしてまた間違えたんですか?」
「またって何よ。間違えてないから。君は私のことなんだと思ってんのよ」
「先輩は先輩です。馬鹿で横柄で、世間知らずで、それでいて超わがままで最低な人です」
「久しぶりに会ったのにひどい言い草だねぇ。私は君に何か悪いことでもしたっけ?」
先輩は不服そうな表情をしながら僕の対面の席に座る。僕は手元の文庫本から視線を動かさないまま「そりゃあもう、沢山ですよ」と皮肉めいた口調で反論した。
「例えばどんなことよ?」先輩は何故か楽しげだ。
「放課後先輩の代わりに三年生の教室の掃除をさせられたりとか、学校に忘れ物したからって真逆の先輩の家まで配達員代わりにさせられたりとか」
「そんなことあったっけ?」
「ありました。忘れたんですか?」
「過去は振り返らないのが良い男になる秘訣だよ、後輩くん」
清々しいまでに悪びれもない笑顔で、先輩は諭すように言った。僕は「はぁ…」と一つため息をついてから文庫本を閉じる。先輩の濁りのない秋の空みたいな瞳と視線がぶつかった。
「それで? 本当に何しにきたんですか?」
「何って、部長が部活にきて何が悪いのさ」
「あんたもう部長じゃないでしょ。しかも幽霊部員のくせに」
「形だけの部に幽霊部員も何もないでしょ。どうせ私と後輩くんしか来ないんだから」
「先輩はきても本なんか読もうとしないじゃないですか」
「私は現実逃避なんかしないの。リアル第一主義!」
「文芸部にいた人間とは思えない発言ですね」
僕と先輩は文芸部とは名ばかりの部活に所属している。正確に言えば、先輩は少し前まで所属していた。学校の校則で全生徒が強制で部活に加入しなくてはならず、僕は本が好きだからという安直な入部理由を盾に、入学一週間後に部室扱いになっている図書室に入部届を持っていた。それを面倒臭そうに受け取ったのが先輩だった。それが二年近く前の春の話。今思えばあの頃の先輩は憂鬱げで、全身から孤独感が漏れ出る人だった気がする。以前は長かった髪も今は顎のラインで綺麗に切り揃えられ、表情は比べれないほど明るくなったように感じる。
「そういえば、大学受かったらしいですね。おめでとうございます」
「あー、うん。ありがと。念願叶ってやっと一人暮らしだよ」
この街も暫くお別れだねと頬杖をつきながら外を見つめる先輩の横顔が、少しだけ寂しさを纏ったような気がした。窓の隙間から吹き込むからっとした風がそれを助長するようにカーテンを静かに揺らす。その横顔に見惚れる僕と先輩の間に少しの沈黙が流れた。
先輩もそんな顔するんですね。
生まれてから東京でしか過ごしたことがないからという理由だけで、指定校リストの中から関西の私大を選んだ先輩は「一般受験じゃないのは負けとか言ってる奴の方が負けなんだよ」と元々成績は良いから大して苦労もせず学内推薦を貰い、早々と進路を決めていた。その大胆さと要領の良さが疎ましくもあり、羨ましくもあった。
誰かの声に惑わされず生きるのは僕らの若さの前では酷く難しいことのように思えたから。もしかすると、大人になってからもずっとそうなのかもしれない。だからこそ、先輩の生き方はいつも嫉妬してしまうくらい眩しい。
「先輩自炊とか出来なさそうですよね。ちゃんと生きていけるんですか?」
僕が茶化してみせると「こう見えて料理は得意なのよ」と自信ありげだった。
「得意料理は?」
「味噌汁。具沢山の」
「絶対誇らしげに言う料理じゃないですってそれ」
「そう? 家庭的でいいじゃん。あと私ご飯炊くの上手いの。絶対いい奥さんになると思うんだよね」
「先輩の家、飯盒とかでご飯炊くんですか?」
「いや、普通の炊飯器。あ、今誰でも変わらないだろって思ったでしょ!」
僕の表情を見透かした一言に「当たり前じゃないですか」と返す。
「あんなの誰がやっても変わりませんって」
「君ってそういうところ本当につまんないよねぇ」先輩は目を細めて睨むような表情をして見せる。君らしいけどねと付け加えてから「まぁ、そんなことはどうでもいいんだけどさ〜」と急ハンドルで話題を変えた。
「今日これから暇? ていうかどうせ暇でしょ?」先輩が少し前のめりになって聞いてくる。
「うわぁ、なんですか。面倒臭いのだったら絶対嫌ですからね」
先輩は僕ができる精一杯の嫌悪を表した表情を見て「違う違う!」とケラケラ笑った。
「ねぇ、今から水族館行かない? 江ノ島の」
その意味を上手く掴みきれず「誰とですか?」と僕が聞くと、先輩は自分と僕を交互に指差しながら「私と君の二人で」と悪戯心が満タンに詰め込まれた笑顔で言った。
学校で二人になることは今まで頻繁にあっても、二人だけでどこかに出かけたことなど、これまでに一度もなかったからその突拍子もない誘いに困惑を隠せなかった。
「急になんでですか?」
「なんでって言われても、何となく水族館行きたいなって」
先輩は「嫌?」と今度は試すような表情を僕に真っ直ぐぶつけてくる。
「嫌じゃないですけど…」
語尾になるにつれて弱々しくなっていく僕の返事を聞いた先輩の目が、おもちゃを見つけた猫みたいに爛々としていくのが分かった。
「じゃあ行こう! 今すぐ!」
「まじっすか」
「まじまじ。あっ、でも一回家帰って取りに帰りたいものがあるから、十七時に片瀬江ノ島駅で現地集合にしよ」
異論はないよねとでも言うように椅子から立ち上がった先輩は、その流れで図書室の入り口に向かう。何も言わないまま出て行こうとするので、その背中に向かって「なんでそんな遅い時間なんですか?」と少し声を張った。
今は午前十一時。ここから江ノ島までは一時間もかからない。仮に先輩が荷物を取りに帰ったとしても余裕がありすぎる時間だった。
先輩はドアノブに手をかけたまま、短く切り揃えられた黒髪をふわりと揺らして振り返る。「やりたいことがあるの。ちょっとだけ付き合ってよ、後輩くん」はにかみながらそれだけ言うと、図書室を出て行った。
「後輩くんって呼ぶの、そろそろやめてくださいよ」
さっきまでそこにいた先輩に届けたかったはずの言葉は、どこにも行き場所を失ったまま、風でパラパラと捲れる置きっぱなしの本の一ページに巻き込まれて消えていった。
平日夕方の小田急線内は冬休みのタイミングだからか、いつもより制服を着た学生が少ないように感じた。座席はポツポツと空いており、柱に体を預けるようにうたた寝している男性の横にゆっくりと腰掛けると、電車は大きな音を立て動き出した。
あと五駅の時間を潰すためにカバンから読みかけの文庫本を取り出して栞があるページを開く。アニメの影響で最近また流行り出している太宰治の「人間失格」。この本を読むのは三回目だった。僕なんかが大文豪の心情を理解しようとするのもどうかと思うけど、素直に全然分からないようで少しだけ分かってしまうような気にさせる彼の文章が好きだった。
彼もきっと、こんな端くれの人間にまで共感されてしまうとは思っていなかったんじゃないだろうか。
何度も読み返したページを流し見しながらパラパラと捲っているうちに、無機質で抑揚のない車内アナウンスがまもなく目的地の着くのを教えてくれた。文庫本を閉じて立ち上がろうとした時、隣の男性がこちらを見ていた気がしたけれど、多分気のせいだろう。
改札を抜けた先には、制服姿のままの先輩が昼間にはなかった大きめのリュックを背負って待っていた。僕が近づいてくるのに気づいた先輩は「五分遅刻だよ」と言いながらスマホをワイシャツの胸ポケットにしまう。
「まだ十六時五十分ですよ。勝手に集合時間変えないでください」
「デートの時はレディを待たせないのが常識でしょ」先輩は大袈裟に両手を頭の横に掲げながら肩を竦めてみせる。
「デートじゃないし、あんたいつも僕を待たせるじゃないですか」
「またそうやって前のこと掘り返す! もうそんなのいいから行くよ」
僕の反論を軽くあしらった先輩は、僕を置き去りにして前を歩き始めてしまった。また一つため息をついてから、先輩の小さな背中を追いかける。
「どうしたら後輩じゃなくて同じ立場で僕のこと見てくれますか」
聞こえないように小さな声で呟いた言葉はもちろん届くことはなかった。
「そういえば初めて来ました。新江ノ島水族館」思ってたより大きいんですねと言う僕に、先輩は「そうだね」とどこか素っ気なさげだった。
「先輩は何回か来たことあるんですか?」
「んー、二回目。結構前だけど」
誰とですかと聞こうとして、その言葉が音になりかける寸前でやめた。先輩の横顔がなんとなく寂しそうに見えたから。
私が誘ったからいいよと、先輩は僕の分のチケットまで買ってくれた。申し訳ないからとお金を渡そうとしても、「今日はいいの」と受け取ってくれなかったので渋々引き下がらざるを得なかった。
水族館を訪れてからの先輩は人が変わったみたいに沈黙を貫いた。いつもより幾分か小さく見えるその背中に何度か声をかけても、先輩の反応はない。口を結ぶような表情のままクラゲの水槽を見つめる視線の先では、ここにはいない誰かを重ねているように思えた。クラゲは多分先輩の瞳には映っていない。先輩だけがこの水族館に流れる別の時間軸に連れ去られてしまったみたいだった。僕らの間には無言の時間が続いていく。
先輩の秋のように澄んだ瞳が少しずつ濁っていくように見えた。僕はその横顔を、ただ眺めていることしか出来なかった。
二時間近く館内を順路通りに周り、ようやく出口のランプが見えた。先輩は僕から隠すような仕草で目元を拭うと、僕の方を振り返って「ごめんね」と言った。その瞳は薄暗い館内でも分かってしまうくらい赤くなっていた。
かける言葉がなかなか見つけられなくて、絞り出した大丈夫ですかという言葉があまりにも無意味に思えた。優しい先輩はそんな無意味な言葉にも「大丈夫。大丈夫だよ」といつもの調子で笑ってくれる。こんな時に気の利いた言葉一つ出せない僕は、やっぱり「人間失格」なのかもしれない。
水族館を出る頃には外はもう水平線が見えないほど暗くなっていた。風に乗って運ばれてくる潮の匂いには、冬独特の匂いが混ざり鼻を刺すように香った。
「ちょっとだけ砂浜まで行かない?」と先輩が言う。その表情は、もういつものふざけた調子の先輩に戻っていた。変わり身の早さに気後れしつつも少しホッとした。
時刻は二十時を回り、こんな真冬の砂浜には人影はほとんどなかった。
風の冷たさと砂浜の歩きにくさにブツブツと文句を言いながら、どちらともなく手を繋いだ僕らは砂浜を波打際に沿って歩く。
唐突に先輩が立ち止まり背負っていたリュックを下ろした。「ねぇねぇ」と嬉しそうに言いながら鞄から大きめの袋を取り出すと「これやらない?」ニヤニヤしながら僕に見せるように掲げた。その袋の中にはあまりにも時期外れな手持ち花火たちが詰め込まれていた。
「先輩、ついに季節もわからなくなったんですね」今は冬ですよと小馬鹿にしてみた。
「そんなの分かってるって。この子も家に残ってただけ。でも何となく今日やらなきゃいけない気がしてわざわざ家まで取りに帰ったの」僕から視線を逸らした先輩は「だってさ」と一呼吸置いてから続けた。
「何もしなくてもまた冬はくるけどさ、君と私が一緒にいられる冬は、もう来ないかもかもしれないんだよ」
先輩との間に何度目かの沈黙が流れ、その隙間を埋めるかのように誰もいない砂浜に波の寄せる音が響いた。
「私はもう冬休みが明けても学校には行かないし、引っ越しの準備とかバイトとかで忙しくなるから、君と私が一緒にいた証を残せる日は今日が最後だと思うの」花火を胸の前で抱えるようにしながら俯き気味に話すその表情は、いつになく真剣に見えた。
僕は「じゃあ先輩」と言って抱えられていた花火をひったくる。
「この一番でっかいの僕にやらせてくださいよ。あと線香花火も」
それを聞いた先輩は「何言ってんの」と言って僕から花火を奪い返すと悪戯っぽく笑った。
「線香花火は勝負するものでしょ!」
真っ暗な冬の海に場違いな花火が何本も咲き、夏を彷彿させる火薬の匂いと儚さだけを残して散っていく。その一瞬の輝きは、今までのどの花火よりも綺麗に見えた。
先輩。今日はなんで僕を誘ってくれたんですか?
あの水族館で誰を思い出していたんですか?
どこでもいいと言っていた割には、関西にこだわっていたのはその誰かがいるからですか?
ここで好きだとちゃんと伝えられたら、来年も先輩が隣にいる冬が来ますか?
言葉になれなかった先輩への想いを、花火が一本終わるたびにバケツに投げ捨てた。
「先輩!」
僕の声に振り返った先輩の瞳は、もう濁っていなかった。
「先輩は馬鹿で横柄で、世間知らずで、それでいて超わがままで最低な人ですけど」
あの日から目が離せなくなった秋のような澄んだ瞳を真っ直ぐ見て僕は言う。
「先輩ならきっと、大丈夫ですよ」
これが僕らの最後の冬だった。
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