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「来年も花火しようね」と君が言った。

遠くから君が呼ぶ声が聞こえた気がした。

思い出に深く根を張り過ぎた、あの頃の君のままの声で。

微睡みの中の君は、まだ僕等が共にいた時間の中を生きていて、人気のない真冬の海岸沿いを駆けながら、その華奢な背を追いかける僕を見て笑っていた。

その光景は、まるで映画のワンシーンみたいなのに、確かに存在していた幸せな日常だった。

君が立ち止まって「ねぇ」と問いかけてくる。けれどもその先に続く言葉は聞こえなかった。

やがてほんのりと優しさを漂わせた色彩豊かな光が強くなり、その温もりに包まれるように、君の輪郭が少しずつ朧げになって消えていく。

「次は、片瀬江ノ島…」

無気力で抑揚のない車内アナウンスが目的地を告げるのが聞こえて、現実の時間に引き戻される。

ぼんやりとした意識で何気なく視線を隣に向けると、地元の高校生らしき少年が文庫本のページを捲っていた。

あぁ、そうか。君はもう隣にはいなかったんだ。

二年振りのホームに降り立つと、すっかり肌を刺すように冷たくなった風に乗って、懐かしい潮の匂いがした。

海の近くなんてどこもきっと同じような匂いがするのだろうけれど、やっぱりここだけは、僕にとって特別なのかもしれない。

冬休みの時期だからか、平日の夕方にも関わらず駅前はそれなりに混雑していた。

それでも陽が沈み始めた真冬の海に向かう人は殆どおらず、皆堪能し切った表情で、思い思いに写真を撮ったり、手を振り合ったりして、疎に改札に流れていく。

僕はその流れに逆らうように海岸に向けて歩き出した。

通りを進むと、思い出の中にはない店がいくつか増えて、僕らがあの日に入った古民家のような喫茶店が無くなっていた。

かつてそこにあった店の代わりに、今は洋風の海鮮レストランが営業をしている。

「オムライスもコーヒーも絶妙に中途半端だったもんね」と君が苦笑いしたのが見えた気がした。

あの日から二年分歳を重ねていた。二年という時間は短いようで長い。その年月が大学生だった僕が似合わなかったスーツを着こなせてしまうくらいには、社会の波に染まらせた。

世の中は次から次へと様変わりしてく。それなのに変わっていくものばかりの中で記憶にいる君だけは、変わらず僕のそばに居続けた。

「ねぇ、冬の海がなんで暖かいか知ってる?」

江ノ島に続く橋に差し掛かったところで、記憶の奥にしまわれていたカセットテープが引っ張り出されて、そのまま再生されていく。

かつての君が僕に問いかけた声が、少しノイズが入ったまま蘇ってきた。

「知らない。海流の流れとかじゃないの?」と少し無愛想な僕の反応を見てむくれてみせた君は、穏やかな潮風に長い黒髪を静かに靡かせながら、「私はね、冷たくて独りの冬でも、誰かに愛して欲しいからだと思うの」なんて馬鹿げたことを言っていたっけ。

「夏には皆んなから愛してもらえるのに、冬になったら忘れてしまうなんて可哀想だよ」とも君は言った。

「だからせめて、私だけは冬の海を愛してあげていたいの」

 夏になったらまた思い出してもらえるなら、十分幸せじゃないかと思った。必ず愛してもらえる季節があるものなんて、一体この世にどれだけの数が存在しているのだろうか。

「日本近辺の海水はさ…」

 君が「ん?」と僕に向ける表情を見て野暮なことを言うのはやめた。

真実なんて、あの時はどっちでも良かったから。

なんでもないと前置きをしてから「君はロマンチスト過ぎるよ」と僕が言って、「君が現実主義すぎる! 堅物!」とまた少しむくれてみせる。

そんな反応も、仕草も、全部が愛おしかった。

この寒空の下で、君は今、誰かに愛してもらえているだろうか。独りじゃないといいな。

夏になったら誰かに愛して貰える保証なんて、僕らにはどこにもないのだから。

海風が吹いて波打ち際が揺らされるたびに、あの日君と訪れた場所を視界に捉えるたびに、必死に心の奥にしまい込んだはずの記憶が蘇ってきて、まるで古いレコードを再生するかのようにノイズの入った君の声が聞こえた。
 
再生
「抹茶のアイスって、あんまり好きじゃなかったよね?」
停止
渋味が強すぎなければ好きだよって前言ったじゃないか。
 
再生
「あぁ! ここマルシィのMVで歩いてたところだ!」
停止
あの日この道を通らなければ、そのバンドのことも知らないでいれたのに。
 
再生
「猫がいるよ! めっちゃ太々しい顔してる! あ、欠伸した。よし、君をブチと名付けよう」
停止

やぁブチ。元気にしてたか? 相変わらず太々しい顔をしてるな。でも少し老けたんじゃないか? お互い歳はとりたくないな。

どれも些細な思い出ばかりで、一つ足りとて特別なものなんて無かった。

ありきたりな日常、ありきたりなカップルのデート、ありきたりな会話。

革命なんて起こらない、ごく普通の時間を、僕らは生きていたはずだった。

君にはそんな時間を、特別に変えてしまう力があったんだ。僕にしか効かない、最悪な魔法で。

「私ね、毎年おみくじは浅草寺で引いてたんだけど、四年連続で凶ばっかり引くから調べてみたの。そしたらね、浅草寺って凶が出やすいって有名なんだって。凶が出やすいお寺ってなんだよって感じだよね。だから今年からは江ノ島でおみくじを引くことにしたの」

島の坂を登っていく途中で、彼女がそう言ったことを思い出した。

結局その日引いたおみくじも凶で、意地になった君はもう一枚引いてみたけど、無慈悲にも凶の文字が書かれていた。ちなみに僕は大吉だった。

「そういえば私、昔からすっごく運が悪いの」と君が急に神妙な面持ちになって言った時は思わず笑ってしまった。持ち前の運の悪さには、場所なんて関係なかったみたいだ。

「なんで笑うの!」と君が必死になるのが面白くてまた笑い声が漏れる。

君もそれに釣られて笑ってくれた。お詫びに僕の大吉のおみくじを君が、君の凶のおみくじを僕が木の枝に結び、もう一枚の凶のおみくじは僕が持ち帰った。

そのおみくじは、君と大学生という肩書きに怠けて自堕落の限りを尽くしたあの部屋から逃げ出した時に捨てるつもりだったのに、今だに財布に入れたまま、捨てられずにいる。

あの街に、あの部屋に、君の残り香のするものは全部置いてきたはずだったのに。

結局僕は、何も捨てられず何も忘れられないまま、幸せだった頃の思い出に縋っているのだ。

安い言葉を書き連ねるインフルエンサーが「忘れられないなら、忘れられるまで大切にしまっておきなさい」と呟いているのを見かけたけど、本当にこのままの僕でいいのだろうか。

こんな僕のままで、君を忘れて前に進める日はくるのだろうか。

せめて時間が解決してくれるだろうと信じて必死に取り繕って生きてきたけれど、それももう信じられなくなってきていた。

だから僕は今日、ここにきたんだ。

忘れられない思い出を一つ一つ丁寧になぞって、別れを告げていくために。

君なしじゃ一歩も前に進めなくなってしまった僕が、半歩でもいいから前に進むために。

残された僅かな勇気を振り絞って、真っ先に頭に浮かんだこの場所を訪れたんだ。

それなのに、別れを告げていくどころか、二年経ってもまだ僕は結局何も捨てられていないままだった。

君の面影が強く残りすぎたこの場所で、君の声がどこからか聞こえるたびに、傷跡になってしまった思い出が鋭く痛む。

横を通る人たちが僕のことを少し奇妙な目で見て過ぎていく。きっとひどい顔をしているんだろう。こんなつもりじゃなかったんだけどなぁ。

意識していなければ、今すぐにでも顔をグシャグシャにして泣いてしまいそうだった。

君がいない僕は、こんなにも弱くて情けなくて、酷く惨めだった。

一通り歩き回り、橋を戻ってくるころには、辺りはもう夜を迎えていた。水平線の奥には夜景が光っていて、その美しさに漏れ出たため息は白くなって海風に流されていく。

寒さに震えながら砂浜を歩いていると、視界の端に火花のようなものが映ったような気がした。見ると、制服を着た高校生の男女が時期に似合わない手持ち花火を両手に持ってはしゃいでいる。

男の方はよく見ると電車の隣の席で、文庫本を開いていた少年に似ている気がした。

風の冷たさなんて微塵も感じていないように笑う二人の姿が、妙に懐かしくて眩しいくらい輝いて見えた。あんな物語が、僕にもあったはずだ。

「ねぇ」

不意にまた君の呼ぶ声がした気がした。目を瞑ってどことでもなくその声に耳を傾ける。

今度はちゃんと君の声が聞こえた。

少しだけ低くて、目一杯優しさを詰め込んだあの頃の君のままの声で。

「海で花火しに行こうよ。きっと忘れられない思い出になるよ」

彼女が突然そんなことを言い始めた。多分またなにかの映画に感化されたんだと思う。

なんでも影響を受けやすいのが彼女の悪い癖でもあり、可愛らしいところでもあった。

何度と映画の影響を受けた彼女に付き合わされてきたけれど、この花火が、僕らが最後にした映画の真似事だった。

「え? こんなクソ寒い時に? 今冬だよ?」

「冬だからやるんだよ。夏にやるのとは違う、特別なやつ」

「そんなこと言っても花火なんて今時売ってないでしょ」

「それがね、さっきホームセンターに行ったらあったんだよ。しかも半額! ほら! 夏の余り物で湿気ってるかもしれないって言われたけど、きっと大丈夫だよ」

その日の昼過ぎに小さなバケツと花火をカバンに詰め込んで、僕らは江ノ島を訪れた。

日が沈むまでに島を一通り歩き回って、寒いのに抹茶のソフトクリームを食べて、よく知らないバンドのロケ地を見て、目つきの悪い太々しい猫に「ブチ」と名前をつけた。

辺りが暗くなるのを待って僕らは橋を戻り、人気のほとんどない波打ち際の近くで花火をした。半分くらいは湿気っていて火がつかなかった。

こういうところもやっぱり彼女は運が悪い。それでも僕らは残りの半分を目一杯楽しんだ。

永遠にすら感じたこの時間を噛み締めるように、一本、また一本と冬の夜に似合わない花火を咲かせていく。

吹き上がる炎がスローに見えて、火花の赤、黄、緑、紫がそれぞれ彼女の瞳を揺らした。

このままこの時間がずっと続けばいいのに。そんなことすら思った。

瞼を開けると、自然と涙がこぼれ落ちて乾いた砂浜を濡らした。

あの日、最後の花火が終わった時に君は言った。

「来年も花火しようね」と。

君と僕が結んだ、もう叶えられることのない最後の約束だった。

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