【書評3冊目】琉球と中国/忘れ去られた冊封使(原田禹雄・吉川弘文館)

「冊封も、その詔勅を伝達する冊封使も、これは宗主国側の行為である。職貢という、服属国側の行為と、有機的に関連させてこそ、琉球と中国の交流史が成立する」(同書2p)
服属国側が享受する経済的利益に注目しがちな朝貢。明及び清が琉球王国に派遣した冊封使たちによる旅行記録「琉球使録」を読み解くことで、冊封と朝貢(職貢)関係の中の文化的交流を明らかにする。
 
《本の紹介》
 本書の大きな特徴は、歴代の「琉球使録」のほとんどを、著者自身が和訳している点にあり、その内容から、冊封使個々人の性格や両国の時代背景を読み取ることができます。その中には、大陸から「海の彼方」にある琉球への派遣を命じられた冊封使の苦悩や、琉球で我が物顔で交易を行う日本人を見て将来の琉球侵攻を憂う予言などがあり、冊封使の目から見た生々しい琉球王国の実態が浮かび上がってきます。
 
 そもそも、著者は作中において、冊封と冊封使の来琉は、「沖縄が昔から日本であった」という明治政府の主張にとって、不都合なために消し去られた旨を指摘します。その冊封使の視点では、船作りから、同船する人員集め、倭寇対策というように、中国側にとっても決して少なくない負担によって実現していた事実が浮かび上がり、一方で冊封使の帰国に合わせて派遣される「留学生」の存在からは、琉球が中国の文化を積極的に学んでいた様子が浮かび上がります。冊封使の役割の1つに、琉球による中国文化の習熟度の確認があったことの証と言えるでしょう。
 
  もちろん、経済的な利益が大きかったことも見逃せません。著者によれば、1633年の冊封使に同行した胡靖の記録では、このときに冊封使とともに来琉した同行者の貨物はすべて王が買い上げ、それを薩摩の一行と貿易した結果、3倍の利益を上げたと言います。この時期の琉球はすでに薩摩の支配も受けていた時期ですが、それでも、琉球が国として一定の独立を保っていたことを表しています。
 
こうした朝貢=評価(ハンガー)貿易において、実際に評価という重要な業務をこなしてきたのが久米村の人々です。久米村は、漢民族移民の末裔が多く居住し、女真族の清朝成立の際に、明の服装から琉球の服装に改めたと言われます。その久米村の人々は、その後の冊封・朝貢においても、通事(通訳)として福建にとどまったり、「留学生」として中国に派遣されています。琉球王国の外交を考える上で避けては通れない存在と言えます。
 
 話はやや脱線しますが、数年前、中国が沖縄の領有を主張することがありました。琉球が、中国の歴代王朝と冊封関係にあったことを論拠としているようですが、それを言えば現在の東南アジア・東アジアの多くの国が中国ということになり、荒唐無稽な話ではあります。一方で、「琉球が昔から日本であった」という言葉は全く正しいと言えるのでしょうか。あくまで琉球の目線、中国の目線、そして日本の目線で立体的に捉えることではじめて、沖縄の歴史についてものを言えるのではないでしょうか。
本書は、当時の中国人が琉球をどのように見て交流していたか、そして琉球側が中国とどのように接していたかを映し出す貴重な一冊と言えます。
 
《重要ポイントの要約》
○中国の皇帝から国王に任命されることを冊封と言う。しかし、冊封したからと言って、中国がその国の主権を侵すことはなかった。
○朝貢使一行が携えた貨物(琉球の場合は、冊封使一行が貨物を持参した)は、高値で買い上げ、宿舎で売買可能だった。
○日琉同祖論の学者は、薩摩の口出しは受けていても、琉球が日本と対峙する国家で、国王が存在し、考古学的な資料も、日本の影響だけで成立した訳ではないことを無視していた。
○アジア各地の中継貿易の拠点には貿易に従事する中国人が居住。沖縄でも、那覇の浮島に中国人が住み着き、のちに久米村(くめんだ)と呼ばれる地区を形成。
○明は海禁政策をとったため、貿易は朝貢という形式以外は認められなかった。各地の中国人は朝貢貿易を請け負うしかなかった。
○琉球王朝の政変の陰には、それら中国人の名前が見え隠れし、一定の関与が疑われる。
○冊封使に任命された文官が、自分の任期内に実際に派遣されないように先延ばしを画策。それだけ、命に関わる危険な任務と見なされていた。
○中国における琉球情報の多くが全くのでたらめだったことも、のちに「琉球使録」が多く作られた理由。
○中国は、琉球を通じて秀吉の朝鮮出兵を事前に把握していたほか、薩摩の琉球侵攻の気配も察知。代替わりした琉球に冊封と防衛強化を求めるも、琉球はすぐには応じなかった。
○中継貿易としては、明の海禁政策が終わってからは、徐々に利益は減っていった。
○福建を出た冊封使一行は、台湾や尖閣諸島などを目印に東進し、那覇に向かった。
○冊封使一行は、春の季節風に乗って出発し、秋の貿易風に乗って帰国する。その間の滞在期間は約半年にわたり、その間には7つの大宴が開かれる。同行者は久米村に滞在するため、そこで交流も行われる。
○冊封使一行の半年分の食事を準備するため、3年前から準備がはじまり、不足した場合には奄美から徴収することもあった。
○冊封使が数多くの「琉球使録」を残しているのに比べ、日本人は全くといって良いほど琉球に関する文書を記してない。明治政府も、琉球・沖縄の文化財への意識が低い。

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