哲学甲子園への投稿作品その一
求められていたテーマと違ったこともあり、落選。原稿を置いておきます。
『古事記』の登場人物である伊弉冉に焦点を置いた、姿と言葉の関係の考察
私は日本の起源を記した神話である『古事記』を読むことで姿と言葉の関係を分析したいと考えた。今回は『古事記』の上巻部分を参照し考察する。
『古事記』の冒頭において伊弉冉(いざなみ)と伊弉諾(いざなぎ)は共に世界を作ることとなり、太い柱を回って国や神を産もうとする。しかし回る際に伊弉冉(いざなみ)が伊弉諾(いざなぎ)より先に彼を立派な青年と評し、次に伊弉諾(いざなぎ)が伊弉冉(いざなみ)を美しいと褒めたところ淡島という、島に満たないものと蛭子しか産まれなかった。そこで天の神に相談したところ、伊弉冉(いざなみ)が伊弉諾(いざなぎ)より先にものを言ったことがよくないと言われた。そして先に伊弉諾(いざなぎ)が伊弉冉(いざなみ)を褒める形にすると、次々と国や神が産まれた。
ここでわかることは、伊弉冉(いざなみ)は世界を表現する言葉を天界から否定されたということだ。産まれた国や神に名前を付けることは、すなわち世界の姿を自分の言葉で捉えることである。当初伊弉冉(いざなみ)は自分から伊弉諾(いざなぎ)の姿を捉え、彼より先に自らの言葉で表現しようとした。しかし天界は彼女の言葉を拒絶し、国や神が産まれることを許さなかった。一方で伊弉諾(いざなぎ)が先に伊弉冉(いざなみ)の姿を言葉にすると、次々と国や神が産まれた。
その後伊弉冉(いざなみ)は加具土(かぐつちの)命(みこと)を産んだことが原因となって黄泉の国へと旅立った。そして彼女の死を悼み黄泉の国まで来た伊弉諾(いざなぎ)に対し、伊弉冉(いざなみ)は現世に戻れるかを黄泉の国の神に聞くのでそれまで待ってほしいと頼んだ。しかし伊弉諾(いざなぎ)は待ちきれず火をつけて黄泉の国を進む。するとそこでは伊弉冉の体中に蛆がわき、また体中に雷神を宿していた。伊弉諾(いざなぎ)は驚きのあまり声をあげる。伊弉冉(いざなみ)は伊弉諾(いざなぎ)に恥をかかされたと言い、彼を追いかける。
黄泉の国に行った伊弉冉(いざなみ)は伊弉諾(いざなぎ)の言葉に基づく世界の姿の規定から逃れたはずだった。黄泉の国は真っ暗であり、現世のようには自身の姿を規定されない。しかし伊弉諾(いざなぎ)は黄泉の国でも火をつけ、伊弉冉(いざなみ)の姿を見た際には驚きのあまり声をあげる。伊弉冉(いざなみ)が恥をかいたのは、本来姿が規定されないはずの真っ暗な黄泉の国で、伊弉諾(いざなぎ)が伊弉冉(いざなみ)の姿を彼の視点から規定したからではないか。
伊弉冉(いざなみ)に追いかけられた伊弉諾(いざなぎ)は坂に巨大な石を置いて塞ぎ、二人は石を隔てて離別の言葉をかけあう。伊弉冉(いざなみ)は伊弉諾(いざなぎ)の国の人間を1000人殺すと言い、それに対して伊弉諾(いざなぎ)は1500人産むと言った。伊弉冉(いざなみ)は世界の姿を自らの言葉で規定できないので、国や神を産むことはできない。よって彼女は伊弉諾によって規定され産まれた生をただ否定することしかできない。加えて伊弉冉(いざなみ)の目の前は巨石で防がれ、もう伊弉諾(いざなぎ)を見ることもできない。その後伊弉諾(いざなぎ)は穢れをとるために川で両目と鼻を洗い、天照(あまてらす)大神(おおみかみ)、月読(つくよみの)命(みこと)、須佐之男(すさのおの)命(みこと)を産んだ。伊弉諾は彼らが大層美しいことから彼らを三貴人と呼んだ。
続いて古事記はこの三貴人を巡る話に移る。天照(あまてらす)大神(おおみかみ)は天を治め、この世界を照らす。光が無ければものは姿を現さない。すなわち光は世界の姿を表す言葉であると言える。
しかしながら、姿を表現する言葉は天から授けられるだけではない。世界の側から自らの姿を主張する場合もある。その一例として天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)の舞が挙げられる。須佐之男命の暴虐に心を痛めた天照(あまてらす)大神(おおみかみ)は天岩戸に閉じこもり、世界は闇に包まれる。天界の神々は相談し、天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)が舞を踊ることになった。彼女の踊りによって天の世界は鳴り響き、たくさんの神が一緒に笑った。天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)は世界と共鳴して天照大神に世界の存在、すなわち世界の姿を主張した。
天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)が気になった天照(あまてらす)大神(おおみかみ)は岩戸を少し開ける。すると八咫(やたの)鏡(かがみ)が彼女の目の前に差し出される。彼女は鏡に映る自分の顔を見て大層不思議に思う。その隙に彼女は岩戸から引きずり出され、世界には再び光が戻った。
ではなぜ天照(あまてらす)大神(おおみかみ)は鏡で自分の顔を確認することができたのか。それは、彼女がこもっていた洞穴の壁が黒色でなかったからだ。天照(あまてらす)大神(おおみかみ)は全身から光を放っている。壁がもし真っ黒ならば壁が全ての光を吸収してしまう。よって壁部分が黒色でなく、光を反射することは天照(あまてらす)大神(おおみかみ)が自分の顔を確認することに必要だ。すなわち、世界の姿を捉えるならば、その人の周囲は光を反射しなくてはならない。
以上の議論をまとめると、次のようになる。姿とは世界を捉えて言葉にしたものである。姿は世界が人から与えられるだけでなく、世界の側から主張することもある。また、自らの周囲、つまり世界が光を反射するからこそ世界を言葉で捉えられる。
伊弉冉(いざなみ)は現世では自らの言葉を否定され、世界の姿は常に伊弉諾(いざなぎ)の視点と言葉によって描かれている。真っ暗な黄泉の世界では彼女は光という、世界や自分の姿を現す言葉を持たない。また、現世での天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)の場合と異なり彼女が何をしても真っ暗な黄泉の世界は彼女に応答しない。その時、伊弉冉(いざなみ)に残る言葉は彼女自身の存在だけだ。彼女の存在は漆黒の中で何を語るのか。それを知ることができるのも彼女自身の存在のみである。
本文 1988文字(フリガナ除く)
参考文献『古事記』(1963)岩波文庫
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