たんぽぽの茎

思索について、丁寧に書き記したいです。

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最近の記事

「面白い」「楽しい」「好き」の力は意外と弱い

勉強や仕事において、面白いこと、好きなこと、楽しいことを極めればよいという意見がある。野球が好きなら野球を頑張る。将棋を打つことが楽しいなら将棋を頑張る。 しかしながら、面白い、楽しいや好きの気持ちで長い間仕事についている人はそれほど多くない。いったいなぜか。 まず、楽しいことは世の中にいっぱいある。私は数学も哲学も面白いとは思うが、同じくらいYoutubeの動画やゲームは面白いと思う。いや、前者以上かもしれない。 もし好きなことを仕事にするためには、並大抵の努力ではな

    • ポリコレ批判はポリコレによって守られている

      ポリティカルコレクトネス(通称ポリコレ)はしばしば批判される。特に多いのは、表現の自由に関する文脈である。 例えば、あるゲームの表現が変化した。ユーザーは表現の変化は悪手であり、その理由としてポリコレを挙げる。「ポリコレによってキャラの魅力がなくなった」などだ。 ポリコレと言う言葉は語義から言えば"政治的妥当性(政治的正しさ)"という意味である。ある表現が特定の人々を揶揄したり貶めたりしないようなことを目指している。例えば、障害のある人と言う表現を障碍と言い換えたりハンデ

      • 熟語だと自動詞か他動詞かわからない問題

        日本語には熟語と言う便利なものが有る。熟語は漢字を組み合わせて意味を表す。熟語構成は例えば以下のようなものである。 意味が対になる漢字の組み合わせでできている熟語(例:上下/進退) 似た意味の漢字の組み合わせでできている熟語(例:寒冷/救助) 前の漢字が後の漢字をくわしくしている熟語(例:牛肉/花束) 前の漢字が動作を、後の漢字が「〜を・〜に」に当たる意味を表している熟語(例:登山/読書) 前の漢字が主語、後の漢字が述語の関係の熟語(例:市立/腹痛) (以下サイトから引用

        • 牛角・公共の利益・正義論

          牛角の女性限定半額キャンペーンが炎上していた。 あのキャンペーンは果たして性差別にあたるのか。 当たらない根拠の一つは、牛角のキャンペーンが公共の利益を害することには当たらないということだ。 例えば、教育は憲法において全ての親が子に受けさせる義務がある。もし名字が「鈴木」の人は子に教育を受けさせてはならないなんて法律があったら、反発は免れない。それは男性・女性においても同じである。 アファーマティブアクションに関して今回は言及しないが、基本的には格差を是正・補填する意

        「面白い」「楽しい」「好き」の力は意外と弱い

          言葉が人を作る

          自分の発した言葉は自分の体に浸透し、思考に影響を与える。 だからできるだけ丁寧に言葉を使わなくてはならない。 私はできるだけ乱暴な言葉を使わないようにしている。 なぜなら、私自身の思考もより乱暴になってしまうからだ。人に対しての憎悪は止まらず、それに囚われる。 私はできるだけネガティブな言葉を使わないようにしている。 なぜなら、ネガティブな言葉は自らの可能性と希望を阻害するからだ。世界は可能性で満ち溢れている。しかし自分の殻にこもってしまえば素晴らしい出会いに気づか

          言葉が人を作る

          推し活に関するいくつかのアイディアその2

          もう一つのアイディア、三本足の椅子の法則を紹介します。 椅子は四本足または三本足のものをみかけます。それ以上足があっても、椅子はそれ自身で立つことができます。 しかし、三本足の椅子が足を一つ失うと、椅子が立つことは難しくなります。二本足だけでなく一本足ならなおさらバランスが取れません。 ここから学べることは、自分にとっての支えは複数、それもたくさんあった方が善いということです。なぜなら、支えを失うと自分のバランスをとれなくなるからです。 推し活は自分を支えてくれるでし

          推し活に関するいくつかのアイディアその2

          推し活に関するいくつかのアイディアそのいち

          近年、推し活が流行していますが、私はいくつかのアイディアを持っています。今回はそのうちの一つ、作用・反作用の法則を紹介します。 ①作用・反作用の法則 壁を押すとき、自分が押し返されたような状態になります。それは作用に対して反作用が働くからです。鋼鉄を殴ると拳が痛みますが、それも同様の理由です。 では推し活ではどのようになるでしょうか。 (i)前方に倒れこむとき もしかしたら、推し活に頑張りすぎて前のめりになっているかもしれません。グッズを買う、ライブを見に行く、コン

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          やさしさを受け取る

          昔『世界は贈与でできている』と言う本を読んだ。 この社会に生きている我々は貨幣と物との交換関係を基本としていると考えている。お米を買うためにお金を払う。 しかしながら、社会は交換関係だけでできているわけではない。むしろ、様々な人から、何かしらを受け取っている。 例えば、道路を安全に利用することができる。これは点検や整備を行う人たちの仕事のおかげである。おいしいご飯が食べてるのも、生産者さん方の勤労・努力のおかげである。 我々はこれらに気づくことはほとんどない。だけれど

          やさしさを受け取る

          自分が自分でなくなる時

          自分を消してやりたい 自分の人生を実感できない どうしてこれらの感情を抱くのであろうか なぜなら、自分自身を自分自身と思えなくなっているからである。 一番の例は、留年であると思う。 留年をする理由はたくさんある。遊びに熱中した時。長い間体調を崩した時。大学よりも優先すべき問題に直面した時。 しかしながら、具体的理由があるのではなく、なんかよくわからないけど留年してしまった、と言う場合もある。 何に対してもやる気が出ない。日々の生活や勉学等に意味を感じることができ

          自分が自分でなくなる時

          哲学甲子園への投稿作品その2

          求められていたテーマと違ったこともあり、落選。原稿を置いておきます。 『アイヌ神謡集』の「小狼の神が自ら歌った謡」を用いた、我々の時間解釈と物事の理解形式の関係の考察  この文章において、私は『アイヌ神謡集』の「小狼の神が自ら歌った謡」を分析し、物語において三つの時間解釈が存在していることを分析する。そしてその時間解釈を因果性、必然性と偶然性に置き換え、我々の理解形式を考察する。  初めに、「小狼の神が自ら歌った謡」の内容を要約する。小狼はある日暇だったので浜辺に出る。す

          哲学甲子園への投稿作品その2

          哲学甲子園への投稿作品その一

          求められていたテーマと違ったこともあり、落選。原稿を置いておきます。 『古事記』の登場人物である伊弉冉に焦点を置いた、姿と言葉の関係の考察 私は日本の起源を記した神話である『古事記』を読むことで姿と言葉の関係を分析したいと考えた。今回は『古事記』の上巻部分を参照し考察する。  『古事記』の冒頭において伊弉冉(いざなみ)と伊弉諾(いざなぎ)は共に世界を作ることとなり、太い柱を回って国や神を産もうとする。しかし回る際に伊弉冉(いざなみ)が伊弉諾(いざなぎ)より先に彼を立派な青

          哲学甲子園への投稿作品その一

          自分を愛するということは、人を愛するということである。

          自分を愛するということは、人を愛するということである。 人は人を愛するとき、それにふさわしい言葉を使う。 ふさわしい言葉とは、人を包み込み、そして同時に人の芯まで届く言葉である。時にそれは誰かを癒やし慰める言葉である。時にそれは人に深い反省を促し善い方向へと導く言葉である。 誰かへの悪口、嫌味、妬み、皮肉、暴言など。それらは人を愛するときに使う言葉ではない。 暴言などの言葉は鋭利で人を傷つけるが、人を変革するほどの力もない。どれだけ鋭利なナイフを持っていても、おいしい

          自分を愛するということは、人を愛するということである。