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海馬 1

1999年 二月    東京

いつもより早く目が醒めた。
仕方なく、というのは自分に対する負け惜しみで、僕は明日に迫ったプレゼンの資料を、ブリーフケースから素早く取り出し、ガラスのローテーブルの上に置いた。
僕の勤める会社は一年半後、都市の中心部を流れる河川の一部に「水」をテーマとしたリゾート施設を建設する。上手くいけば、その都市の活性化にも一役買うわけだ。会社のお抱え建築士である僕は、建設に関するあらゆる懸案事項-例えば融資であったり地域住民や自然保護団体の理解を求める-などといった事はいっさい目もくれず、この一ヶ月半ひたすらモデリングに専念してきた。
コンセプトである「水と人との一体化」は、これで充分だろうか、スパのような騒がしさを伴う場を設ける事に反対な事を、会社は理解してくれるだろうか。僕の仕事は全体の建築デザインであったはずなのにいつしか僕の想像は飛躍していった。そう、名も知らぬ魚のように水と一体になれたら…
その想いごと、果たして理解され了承されるのか、そんな事を考え始めると途方もない荒野に取り残されたような、心細い気持ちになった。

僕は煙草を一本だけ吸った。昔の彼女からもらったライターのキーンという冷めた音が朝の部屋に響いた。コーヒーを一杯飲むと胃が少し痛んだ。紺のマフラーを巻いて部屋を出た。
今にも降り出しそうな雨雲が重苦しく垂れ込めている。

駅の方向に歩き、数分後の出来事だった。交差点の斜向かいにある小さな郵便局の前から視線を感じ、そちらを見た。見覚えのない二十歳前後の青年だった。長すぎるシャツの裾をだらりと垂らし、無精ひげと中途半端に伸ばした髪の間から、僕を見ていた。
青年は僕と目が合うと、横断歩道を渡りゆらりと遊泳するするように地下鉄の階段を降りていった。妙な印象だったが僕はそれほど気にもしなかった。せいぜいどこかのジャンキーだろう、真冬だというのにばかに薄着で、そのうえ魚類のような意志のない目をしていた。

気を取り直して暖かいものでも飲もうと、自販機の前で財布を取り出した時、誤って小銭を道にばらまいてしまった。とたんに力が抜けていく。緩い坂道をどこまでも転がり続けるコインを追いかけるべきか迷っていると、いつの間にか僕の周りは深い川底のように揺れていた。皮膚に触れる風の中に、泡のようなぼんやりとした光の塊がいくつも明滅している。街路樹は水草のような従順さでゆるやかに右に左に枝葉を揺らしている。そして僕は相当疲れている。今日のプレッシャーでどうかしてしまっている。行き交う人はみな魚の目をしていた。

「たかだか小銭だよ」
ふり返ると先程の青年が真後ろに立っていた。至近距離で見る彼は青白い顔をして微笑むでもなくただ僕を凝視しながらそう言った。それは少なからず僕が傷ついた顔をしていたからだろうか。
ただ最近はこうした事が多く、心の半分以上が上の空だった。狼狽えた僕は、とりあえず何とか足元の硬貨を二枚拾い上げて改札へ歩き出した。こんなことではいけない。今日は結果を出さなくてはならない。ふり返ると、青年はもう自販機の前にはいなかった。


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