心の純粋な柔らかいところ
リンゴジュースを1缶、職場でもらったので寒天を混ぜて溶かす。缶詰のパイナップルも入れて冷やすと、ゼリーがお皿になみなみとできた。
いまいち美味しく出来なかったけれど、自分しか食べる人が居ないので時折冷蔵庫から出しては、お皿からすくって食べた。
私は子供の時から市販のオヤツが苦手だった。
子供の頃は味覚が敏感なのか、昭和の頃だったからか、当時のパンもお菓子もケーキも、美味しくないと感じていた。
パイやシュークリームやカステラやどら焼も、スーパーで売っているようなものは食べたいと思わなかった。
小学校低学年のときに、姉が型抜きクッキーを一緒に作らせてくれて、焼いて食べるとそれが本当においしかった。
そこから「手作りお菓子を食べたい」と純粋にオヤツ食べたい欲で、お菓子を作るようになった。
お菓子は、家にいつもあるような材料で出来る。
いまでも、オヤツが食べたかったら自分で作る事も多いけれど、年いって健康志向になってしまって、自分しか食べないのを良いことに、甘味もさして入れないので、あまり美味しいお菓子はできない。
空腹は、神経的な疲れと同様にネガティブな思考を生む。
腹立たしかったりイライラしたとしても、食べると落ち着いて、違う側面でものを捉えられるようになるのは、体と脳(こころ)が繋がっているのだから当然といえる。
人の話を聞くのも、なにか口に入れながらだとリラックスして聴くことができるし、腹ペコではブログも書けない。
食べることと睡眠に満足していたら、ほぼ幸せなのではないかとおもう。
悟るには寝たいときに寝て食べたい時に食べることと言ったのはどの偉人だったか。
食べて寝て不足のない状態でいると、現実をみたときの自分の感情をよく探ることができる。
自分の感情を流さずに観察するというような余裕ができる。
最近、些細な一言を見て嫌な気分になった。それは他人ではなくて近親者が発した言葉だったので、ストレートに自分が『嫌だなー』と思う感情を見ることができた。
他人の言葉ならそこまで敏感に受けていないかも知れない小さな一言だけれど、うっわマウントをとられてる!とおもった。親しみがありそうに見えて威圧的な言葉だと思ったのだ。
私は威圧的な言葉が本当に嫌いだな、とおもった。
私はとくに男性からのマウントに敏感で、腹が立ってしまう。
男性にとって、女性や年下の者が自分よりも下である、という潜在的な刷り込みは、日本男子の大多数が持っていると感じている。
それは、明治維新からつづく近代の日本列島に充満している劣等感が生んでいる、と聞いたことがある。
私は物心ついた頃から成長期にかけて、もろもろの男性に性的なイタズラをされることが、なぜか繰り返しあった。
子供の頃というのは厄介なもので、純粋なだけにそれが良いことか悪いことか意味合いが判断できず、相手は違っても対象者は自分で変わらないので、なんとなくすべて『じぶんのせい』という太鼓判を押して闇を蓋することしかできず、私には随分とバランスを欠いたところがあった。
感じたマウントで『嫌だと思う自分』にしっかりフォーカスした。
どうして腹が立つのだろうと内面を観察する。そして自分にこそ、胸のなかに劣等感が隠れていると思った。そう思うと、納得がいった。
そして、その劣等感は手放すものだと解った。
劣等感を手放した私は、またすこし自由になった。
純粋で柔らかな、大切なものが胸の奥にあるだろう。それを守るために、誰しもが硬く何重にも石膏を固めて、石のようにカッチンカッチンにして純粋な自分を守っていると思う。
だから、マウントをとったり、マウントに傷ついたりする。
自分はちっぽけなもの、傷つくような扱いを受けても仕方ないもの、という劣等感を蓋して闇に残していたんだな。
感情は教えてくれる。
この感情とちゃんと向き合うには、オヤツと睡眠が必要だ。
今日も私は食べたいだけ食べました。そして眠くなったら寝ます。
明日も仕事に行くのはすこし楽しみです。
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