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構成はゆるやかに変わる

いつも使わない駅のトイレで電車の乗り継ぎの合間に用を済まそうとしたら、おばちゃんが先に並んでいて、身ぶりで「満室よ~」と言う。

ああ、とスマホの時計を見て、トイレが空くのを待つかどうか、ホームを振り返って顔を戻すと、おばちゃんがニッコリと「キレイな服ねえ~」と言ってくれ
「有り難うございます。えらい所で誉められましたね」と笑うと
「いやあねえ~!コロナ!どこへ行くにも気をつかう!もういい加減にしてほしわ~」としかめ面。

それらの声を聞いてか、次々とトイレのドアが開き、見事おばちゃんと時間差なくに個室へ入ることができたので有り難かった。

私はつい勘ぐってしまうので
「いやあねえ」あたりから、トイレの中の人たちに「待ってるんだぞ」とプレッシャーをわざと与えてるのかな?とおばちゃんを策士のように思っていた。

愛想の良かったおばちゃんは、すぐさま開いたドアへ向かった。

半分狙った会話かも知れないが、本当に笑顔が素晴らしかった。
大阪らしい、したたかさだ。

介護保険の利用者さんでも、90代~70代のおばさま方は上手に人を使うなあ、と感心することがある。

私は介護の相談員の仕事をしているので、この前世代、前々世代としょっちゅう話が出来ることも、自己の独自性の形成に影響されているだろう。

私は変化する情報が好きな方なので、高齢のかたとは違う情報源で生活している。


多様化とか多元化は、個人がとる情報によって生じてくるのではないか。


同じような考え方のほうが、すんなり耳に入る。
考え方がちがうとなかなか耳は傾かない。

つまり、価値観の違う話を聞けることは少ない。


情報源の王、テレビの作用は繰り返しがメインで、見る人に同一思想を植え付けやすく、困ったことに、どこかしら不平や不足感、劣等感を潜在的に刷り込まれるような形になっている。

どうしても、不満、不安が資本主義を支える購買意欲に効果てきめんだからだろう。

やがて、趣味であるかのような不安が充満する。


刹那的なネット情報は、次々と移ろい、感覚を奪っていくばかりで静寂を失わせて思考をマヒさせる。それは現実との解離を生むだろう。


世の中の不公平や為政について憤慨し続けて、どうにかしなければならない、と感じている世代と

世の中の不公平や政治を諦めて、他方を向いている世代

どちらも、それぞれの選ぶ幸せのなかで生きる。


私は殆んどの対人関係が年上だ。

文句の多い60代以上の訴えに共感する。
共感しつつ、自分の共感に整理をつけていく。

もう、不平不満についていく気がしないので、私自身の観念を変えるしか、この現実の接点は変化していかない。

たぶん
不平不満を、その場で出すべきだということだ。

私は不満を『出すべきではない』『出すのはカッコ悪い』と心の中で思っている。

だから私の見る現実ストーリーには不平不満の場面構成が盛り込まれるのだ。


例えば、自分の感じた不満を言葉や態度に出さずとも、自分がその場その時に不満を燃やすことが可能となれば、きっとまた違うストーリー展開が私の人生に映し出されるのだろう。

変化は緩やかに、確実におこる。


まだまだ生きやすく、楽しくなるぞ
とおもっている。


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