ケアマネージャーが要らない場合もある
介護を受けなければならない状態となったとき、実際の1割~の費用負担で介護サービスを利用するには、まずケアマネージャーを探すように言われるけれど、ケアマネージャーが居てなくても、介護保険は使える。
ケアマネージャーは無料だし、行政側もケアマネージャーを通していたら話が楽チンなので、まるで担当となるケアマネージャーを決めなければ介護サービスは使えませんよってくらいになっている。
介護保険の利用しはじめは、何がなんだかちんぷんかんぷんの制度なので、はじめから自力で調べるのは時間がかかるだろう。
ケアマネージャーが初期に関わったとしても、利用するにしたがって、ケアプランの自己作成が可能であるならば自己作成で介護保険を利用できるようにサポートをしつつ、自立をうながして距離をおく
ようなことも可能な制度になったらいいのになあ、と思う。(報酬体系化)
私の利用者さんで、かなり理解度や行動力が長けている家族さんをもつかたがおられる。
その家族さんは医師に物怖じせず尋ね意見するし(医師との調整を家族さんがしてくれる)
利用者本人ともじっくりと話をして寄り添うことができている(必要なサービスを家族さんが検討してくれる)
そうなると、ケアマネージャーの仕事の負荷がずいぶんと無くなるのだ。
もちろん
本人や家族が
中立な思考ができる頭と意見を言える口、さらに行動力を持っていたとしても、毎月の保険請求にかかわる煩雑なあれこれが面倒臭いにはちがいない。
単純に考えればケアマネージャーをタダで使うのがお薦めなのだ(ケアマネージャーは利用者1人につき1人無料で使える)
けれども
『煩雑なこと(書類)もやってみたい経験したい自分で知らない事を出来るようになりたい』と思う人も
たまには居るのではないか。1%ほどであったとしても居ない訳ではないだろう(私ならしたくなると思う)
可能性を感じる利用者さん家族さんには、自分でする事もできるんだ、と思えるようなお手伝いしてみたいなーと思うのだ。
私たちは利用者さんをもつことでのみ収入が生じる。それ以外には収入の道はない。
それを踏まえるならば
本人と家族さんが考え、決めて、サービスを選択してくれるのならば、ただケアマネージャーは『この家族は楽チンだな』と思えばいいだけだ。
実際、労力負担の多可によっては報酬は変わらないうえにケアマネージャーの報酬単価は安い
(何に対して安いと言えるかと云うと、必要経費を差し引くと私などは国民年金ほどのお給料しか出ない計算になる)
だからして、楽チンも混在している必要性がある。私たちは担当人数を持ってナンボなのだ。
けれども、真実のところでは
もし、介護保険の利用者が、力のある家族や知人を持っているならば、それはその方の人的資産だといえる。
つかえる資産があるならば、社会保険の公費でケアマネージャーを使わなくてもいい。そういう制度設計だ。
介護保険システムは他の数ある公共の制度と同じく惰性的なところがある。
公費というのは、のっぺらぼうのお金の山なので、使うようになるまでは大変だけれど、使いだしたらズルズルと安易に垂れ流される。
後から複雑にされる工夫は、結局、目先の財布の紐を締め上げるものにしかならない。
公費はどうせ税金なんだから
と誰でも簡単に権利を行使してクレクレ星人になってしまう所が、この世界の落とし穴だと思う。
みんなのもの、というのっぺらぼうで責任の所在がないお金であり、うまく使ったもの勝ちだ。
こんなやり方では、そりゃあ誰もがもう99%『使わないとソン』という考えになってしまう。
食虫植物の甘い蜜につられて自ら植物に食べられに行ってしまう虫のようだ。
どうして野菜が農薬肥料まみれになるのか。農家の人は自分の健康被害まで受けながら、農薬散布をやめられないのはどうしてか。
私たちが、虫食いの野菜は避けて、買わないからだ。
私たちの集合意識が、農薬散布の現実を作り出している。
ケアマネージャーはタダやしなんぼでも使ったらええ、と私も思う。
その、1人ひとりの集合意識が、真綿で世界を首締める。
沢山の税金の使い道も、政府てどうしてあんなんやろ?と思うけれど、それは医療保険や介護保険を使う私たちの集合意識が変わらないと、やっぱり変わらないんだと思う。
おじいちゃんの介護で、介護保険を自分で使えるようになった孫娘さんは、次にはおばあちゃんのときにはもっと上手く使えるだろう。
そしたら両親にも同じように出来るようになって、義父や義母にも任せてちょ!となるだろう。
孫娘の潜在的な力(資本)の活用で、数人のケアマネージャー費用は必要なくなるのだ。
税金を使う公共のサービスは、本当の本当には無くなったらいいなーってことばかりだ。
つまり、助け合えるなら必要ないことばかりだ。
最近、区民(公民館)ホールに行ったら、ベンチもソファーもゴミ箱もなくて、電気もクーラーもつけず、くらーいタダの豪華なハコモノだった。
コロナでイベントもなく、市民の休憩にも使わさないようにしていた。
(私はトイレつかった)
新しい劇場、公園、ふれあいセンター
市民の知らぬ間に
皆が喜ぶでしょ!と言うように上から目線で作ってくれるけれど、実際には、夜間には閉められるし、お弁当も食べることができず、居眠りもしにくく、気軽に使い辛いなあ~という赤字の公共施設は、もちろんどこかの企業へ財団へ法人へと『お金を使うため』に作られている。
警察にしても、犯罪がなくなれば沢山要らない。
学校にしても、先人が得意なことを教えればいい。
公園は野っぱらでいいし
スライダープールよりも、近くに綺麗な海と川があればと思う。
もしも、目的地まで自動車に乗り合いするように助け合っていけたら、私たちはこんなにも税金徴収に首を絞められる事もないんだろう。
私たちが他人を信用できず、助け合えないようになるにしたがって、どんどん社会の経費は膨らみ税金は上がって、ないしょで私腹を肥やす人がふえて、文化が衰退してゆく。
私たちの集合意識が社会をつくる。
これがマクロな状態なら、ではミクロではなにができるのか。自分の出来ることを1日一個でも、1ヶ月に一個でも、1年に一個でも、なんかやったらいいんだな、と思いだした。
自分はなんにもできない
ってつい思ってしまう。
それは一番危険でまちがっていて
そもそも本末転倒になるから
めっちゃハードルを足首にまで下げて…
ほら、ブログ書けたやんか、という。
小さな小さな行動から。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?