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断捨離をバレンタインに寄せて

断捨離とは、自己イメージの刷新である。

私たちの自己には、根底に「恥」が刷り込まれている。西洋的には「罪」だ。

染み付いている、このようなネガティブな観念を崩していく手法のひとつが、断捨離だと思っている。

そのままの自分で申し分なく、心から自分に満足している人には、断捨離なんて必要のないことだ。

自分には自信があるよと思って、断捨離する必要ないよと思っても、モノと向き合うと、自分の劣等感が炙り出されたりするので

隠れた自分を発見して、断捨離が「面白いな」とハマってしまう人が多く居るのだろう。

どうして、自己イメージの刷新につながるのか?
モノを持っておきたい気持ちと向き合うからだ。

自分に満足していて、申し分なく自分は素晴らしいと思えている人は、自分さえここに居たら満足だ。
つまり、モノにも執着がない。

モノがあろうと、なかろうと
どっちでもいい。
今必要なものは、いるし
今必要でないものは、あってもいいし、なくてもいい。どっちでもいいのである。

断捨離は、「自分にとって必要なモノだけをおいといて、必要でないものは捨てる」という単純な作業だが、なかなかモノが捨てられないのは、自分が必要と思っているものが、沢山あるという事だ。

自分に必要と思っている
→自分には「無い」から必要だと思っている

簡単なことである。

無いと思っているなら、持っておいたらいいのだ。

それを、わざわざ
ネガティブな自分にサヨナラしたくて「私はどうして自分には無いと思っているのか?」「この満たされていないと信じている観念を手放したい」など、ネガティブ(欠乏感)を刷新して自分を軽くしようというのが、断捨離の内容だ。

いわゆる「部屋が汚いと運が悪くなる」というのも、部屋は欠乏感(ネガティブ)を想起させるという指摘である。
汚い部屋と環境同化している自分を、無意識で非難しているため、幸せを感じにくいという事だ。

例えば、表彰状が捨てられない人は、自分が過去に表彰されたという実績を捨てられない。学位などをとった証拠がないと、自分自身だけでは評価されないと思い込んでいるから、手放せない。

プレゼントや頂き物が捨てられないというのは、自分が愛されていた証拠を捨てられない。仲が良かった証拠を捨てたら、自分にはもうその愛が残らないと思っているから、手放せない。

高価なモノなどで現される、お金を捨てられない(手放せない)のは、自分には稼ぐ能力も、養ってもらう器量も、人と助け合える信頼もない、と思っているからだ。
自分は役立たずで徳が無いと思っているから、ステイタスとなるお金を想起させる高価なものが捨てられないんだ。

こんな自分は嫌だ、自分が不幸なのは欠乏感があるからではないか?と思って
本当の自分はもっと素晴らしくて価値があるんだ
と思いたいとき
欠けていると信じている自分とサヨナラしたいと望むなら
単純な手法として
自分にはある。だから必要ない!
という決断を、モノを捨てること(人と離れること)を通して行う。

単純なもので、モノを捨てると、なんと本当にネガティブな思い込みから抜けられるのが、私たちだ。仕組みは簡単なのである。

洋服を変えたり
筋肉をつけたり
痩せたりするのと同じで
自己イメージなんてのは、簡単に刷新できる。

だから、自己イメージを刷新したくない人や
ネガティブな気持ちを見つけていない人
つまり
「このままでいい」と思っている人に対して、断捨離を勧めるのは変なのだ。

「自分を変えたい」という人が、ひとつの手法として取り組んでみたらいいことであって、たとえば実家や友人に、モノを捨てるべきだと押し付けるのは、意味が無いように思う。


時間の使いかたにも、同じように考えることができる。

私たちが、時間を自分の自由に出来ていたのは、せいぜい3歳くらいまでではないか。

3歳頃から
寝たい時に寝ることも、食べたい時に食べることも、だんだん出来なくなる。

お迎えのために準備をする。
習い事のために着替える。
明日のために寝て、遅れないために起きる。
出来なければ
自分にではなく、親に恥をかかすことにるので、そう躾られていく。

小学校に上がると、全てスケジュールのために行動することとなる。
時間をつねに見る。
次々にやることがあるからだ。

生きている時間
全て、何かに追われる日々の到来だ。

学校や仕事ではもちろん、専業主婦だって時間は自分のものでは無い。
やる事があり、時間までにやらねばならぬ。

子供が上の学校に進むまでにやらねばならず
子が巣立つまで、夫の定年まで、親が死ぬまでに、自分が死ぬまでに、やらねばならない事がある。(ねばならないを探すんだ)

休暇をとっても一緒だ。
楽しく食べても、泳いでも
この食事の後の事を考え、移動時間を考え、帰宅した後のことを考えている。

時間を見ながら行動できなければ、人間として恥だ。
このまま時間を無視して好きにしほうけてしまえば
落伍者になる。
ひいては没落につながり、家の恥で、親にも先祖にも恥をかかせる。
恩を仇で返すわけにはいかないのだ。

さて、何に縛られているのか?

人生の時間を、自分の思う通りに出来ないとは、どういう人生を送るつもりなのか?

恥をかかない人生である。顔に泥を塗らないよう、後ろ指をさされないようにする人生だ。

世間の目を優先している自分が、自分のことを恥と評価してしまうのだ。

自分の中に、人に認められたいという思いを見つける。
人に認められたいなら、そのままでいい。

周囲に認めてもらいながら、それを幸せに感じて生きればいいんだ。
それもとても幸せなことだ。

ただ、やがて子育てが終わり、仕事もなくなって、「周囲」がどこに行ったのか見えなくなると、自分にすべき事が無くなったように思えて、とたんに虚無に陥ってしまいがちだ。

時間に追われる事しか長く経験していないと、
また、周囲の目を基準に生活することに慣れすぎてしまうと、自分で自分の時間を使うことが難しくなる。

宗教や研究など、年齢に関係なく自分のすべきことを背負っていなければ、世間と離れた自分は何をしていいか途方に暮れて、「なんだかとても寂しい」と言う人になる。
言わずとも「寂しい人」となる。
孤独というやつだ。

時間に追われなくなる生活が、慣れていなくて、しかも孤独は自分には辛い、と思うなら

時間を断捨離すればいい。
捨てるんだ。
時間を、ポイポイ捨てる。

ナマケモノになったり
遊びほうける。
屍(しかばね)ごっこもいい。
鉄道路線制覇するのに、時間を捨てたり
幻の味の牛乳を追って、時間を捨てる。

時は金なり?金よりも自分よ!
時間よりも金よりも、大事なのは自分!
と、腹をくくって時間を惜しげも無く好き勝手に捨てる。

無駄ではないだろうかと思うこと(恐れること)に、時間を捧げるのだ。

そんな無駄を許す自分になれば
時間は絶対の権力を失う。

あなたの意のままに、と時間のほうが従ってくれる。
人生において信頼のおける協力者となる。

社会生活を送りながら、時間に縛られないように気をつけている私は、時計をあまり見ないようにしている。
公共交通機関の時刻表もたいして見ない。

電車に乗り遅れたからってどうだと言うんだ!
と、内心ものすごくドキドキしながら強気になることを、何年も地道に繰り返ししている。

小さな、許容できる範囲でやってみて
時間を捨てても大丈夫なことを確認していくと、はじめはザワザワしても、少しずつ焦らず、追われなくなっていく。

仕事に追われたりしていても
「そうしなくてもいい」という選択肢があるんだと、もはや分かっていると
自分は「好きで」焦っている、と分かるし
「好きで」追われていることを知っているので、ストレスが違う。

「忙しい」は自分が選択したもの。

「忙しい」になりたくて、なっているのだと思える。自分が時間の優位に立つ。

すると、時間に追われるのも楽しくなる。

時間が、自分に必要なものと認識でき
自分に必要なモノが、周囲に揃っている。

そうなると
なにもしていなくても、ふと愛に包まれるようになる。

愛とは、多角的な視点であるという。

私から見たあなた、だけではなく
あなたから見た私を思うこと、だ。

飛行機に乗っているとき、空から見下ろしていると、雲が地上に影を落としているのが分かった。
雲は、日差しから私たちに影を届けてくれていた。
私たちをこんなふうに守ってくれていたのか!と感動しきりだった。
私は空から、雲の慈しむような視点を見た。

あの木は、私達をどう見ているんだろう?

この絨毯は、このソファーは、このストーブは?私をどう見ているんだろう?

私たちを見守ってくれている。
私を暖めようとしている、くつろいで欲しいと思ってる。いつでも、私を支えてくれている。どうぞと、いつでもと、YESだと
あれもこれも、全てのものが、私に対してオープンでいてくれている。

どのモノたち空気も、水もなにもかも、受け容れてくれているんだ。
励ましてくれているし
教えてくれている。

時間さえもが、私に使って欲しいと存在している事が分かって、それは、私がそれらをそのように信頼していると言うことでもあって。
それは、愛だと私は思えた。


愛に浸かっている。

愛はそこここにある。あり過ぎて空気のようになっているだけ。

バレンタインですね。
みんなに愛が届きますように!




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