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自分の主張のしかた

吉田さん、お盆休みは?
と何度か聞かれた。
いや、特には…と言う。役所もカレンダー通りでしょ、と。
えー、でもお盆あるっしょ!墓参りするっしょ!と『帰らんの?お墓ないの?』と突っ込まれる。

イヤイヤイヤ、そういう風習って私無いから。介護の仕事するまで身近に感じたことないし、ゴールデンウィークとか年末年始がお休みなのは知ってるけどね、お盆てわたし知らんのよ、などとモゴモゴいう。

お盆てものが皆にあると思い込んでいるんだなあと思った。

同じ日に
離婚が私の人生の『失敗』やったね、と言われて、「イヤイヤイヤまじで失敗とかないから~!」と苦笑してしまった。

離婚が失敗とか汚点とかいう感覚がないので、あれ~私より若いのにそういう見方するんだ~と内心ビックリした。

結婚とか離婚とか学校の選択とか病気ケガとか、場面(ステージ)の転換であって、経験でしかないので、それを失敗と感じるとしたら、非常になんというか…狭く息苦しいことだと思う。

また、年に一度検査をしてもらう総合病院の医師にも、袖の下を渡すのだ、という話を聞いて、その家庭では医者にかかるときには包むのが普通だそうで『やっぱり対応が全く違うから』という。

介護の仕事をしていると、医者に包む金銭の話は珍しくもないので、そうなんですね、と相づちをうつが「私にはわかりませんわー」と素直な感想を伝える。
「私も子宮取ったとき入院しましたけど、ソレ全く思いつきませんでした!ははは~!」と続けてしまい、つい、いやあ大変ですね!と言ってしまいそうになる。(言っちゃったかもしれない)

人口が減ると駄目だと思い込んでいる人もいるし

大切な人を守らなければいけない、幸せにしなければいけないと思うのが真っ当なことと思っている人は多そうだ。

仲良く喋る相手でも、考えることは千差万別だとおもう。

少子化でも世界の人口は2030年には85億人になると言われているし、日本人口の低下が日本の経済や文化の低下に繋がるかどうかは分からないと私は思っている。

大切な人を守って幸せにするのは主観的なことで、わたしにはそれは信心というか、宗教的なことに聞こえる。

考えが違うなーと感じるのが、世の中の深さだ。

それぞれ、自分にとって当たり前のことが、人生をつくっていく。

自分の未来をつくるのは、自分の性格だ。

それぞれの性格が未来を作るのであって、他人や出来事が自分の未来を作るのではないなーと思う。

人の話をきいて、そのことにより、ああ自分はこう考えているのだな、と心の中で感じる。

私は、自分の考えを主張することは相手への批判にとられる恐れが大きく、また面倒臭くもあって、世に出ると聞き役だ。
自分の口から出る言葉も文章ほど饒舌ではないし、考えを伝えきれると思えない。

というかコミュニケーションの目的が違うんだろう。

私が対人関係に求めることは、相手にホッとして欲しいだけであくまでもひとつの『提案』として自己を開示する。私個人の無用な自己主張は必要ない。

本人が安心する方向へ交通整理したい。

私の気持ちを尊重されたいとかよりも、相手の言いたいことを聞くことで『なにかを手伝えたら』というだけな気がする…。

もちろん、コミュニケーション全般が完全にそうという訳ではなく、あんなことこんなことがあった、と言うこともあるが、それはごく短いセンテンスで「こう思った」でENDしてしまう。

ごく近しい家族でもたとえ娘でもそういうところがあるので、ちょっと引け目を感じる。

だから、あんまり友達もいない(私からのアプローチが皆無なのに、話を聞いてとか聞きたいと言ってくれる人は非常に少ない)

人生において、自分がうまくいってるとか、このままでいいとか、幸せだとかイヤ失敗やないぞとか(笑)そう感じれる要素は、自分の感覚を信じてあげている状態かどうか、というだけなのかも知れない。

行動できないときがあった。
人にちっとも感謝できないときがあった。
自然の美しさに感動できないときがあった。

もし腐ってホームレスになって野垂れ死んでも、これが私だ、いいんだと今なら思えそう。

生きるのっておっもしろいなあ、と思っている。

ブログも自己主張として、とても楽しんでいる。

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