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アイドラー

ラジオから生まれた ヴァーチャルアイドル 芳賀ゆいについて調べ始める。
芳賀ゆい企画が誕生した直接の発端は先述した伊集院光の発言であったが、この企画に飛び付いたリスナー含め関係者の土壌には、秋元康プロデュースのおニャン子クラブなど、当時のアイドル量産路線に対する不満があったと言われている。「トイレにいかない」などの既存清純アイドル像を固持し、現実の人間とアイドル像との乖離が進んでいた中、「それだけ現実と離れたものを望むならば、架空のアイドルを作り上げてしまえ」という考えが生まれたのである。wikiより

伊集院光が話していたところによると、芳賀ゆいを演じたのは計57人。Vtuberアイドルも中の人が変わるという方向性も視野に入れたほうがいい。多分、やったもん勝ちや。
複数人の人格、キャラを一人のVtuberに押し込むというアイデアはありだと思う。中の人はいる。11人いる!っていう状態。

他にもそういった要素はあるだろうか?
思うのは歌舞伎の市川團十郎とか、落語家にみられる傾向にあると思う。
しかし、その屋号には何代目というものがつくし、今回市川團十郎を継いだ海老蔵さんは、市川團十郎”白猿”と屋号の後ろに名を冠した。

本来「偶像」であった僕らの生み出したアイドルという概念はむしろ巫女的要素のほうが多い気がする。
多重憑依、多重脱魂を同時平行で行える凄みがある。
そのへんは https://note.mu/deafmutes1217/n/na7a3b9c569cb ここで

しかし、Vtuberに関して言えばその人格性、神話と神の同時生成というのも分かる。バ美肉、バ蠱毒 という言葉のフィット感もある。
バ蠱毒 チベット仏教 ダライ・ラマの選出に近いもの?だろうか?と考えるが、まだ現象に関しては数がないため僕の知り得る、予測しうるモノには至ってはいない。
Vtuberに関して考えるならば、極彩色のビジュアル、予めメジャーを獲得しにいかないスタンスは少し密教的な要素もある。

本質的にこちらが仮想である。反復的に終わらない日常を繰り返し、ある意味現実というバーチャルで僕らはトランス状態、瞑想状態に陥り、ネット、ゲームという努力が報われる、頑張ればなんとかなる現実で意見や意志、感情を戦わせ生を謳歌しているとするならば幽世とはどちらのこと何でしょうか?とか考えてる。

キャタピラのように日々反復を繰り返す。社会張力と終わらない日常とのバランスを取るためにこういう機能がはじめから内包されているんだろうか。

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