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勇気と覚悟と美しさ

去年、ここ数年の私のテーマはこれだったかもしれない。

自分の人生を作っていくのは、結局は勇気となにかそれをすると決めた覚悟である、と。そしてそれをもっている人間は美しい。

数年前、私はちょっと大人になった。
それまでは、眉目秀麗、容姿端麗など顔が端整な人やスタイルがいい人を美しいと感じていた。

しかしここ最近、私の中で「美しい」という言葉の定義がアップデートされた。外見は魅力的だが、結局肉と皮だ。本当の美しさはその人の魂の輝きにある。

アニメpsycho-passを見直したからか、私の中で、猟奇的殺人鬼・槙島聖護の感覚が少し入ってきている。
psycho-passでは、シュビラシステムによって、人々の適性が測られ、職業の選択も全てシステムによって決められる。人々はシステムによって自分自身でなにも決めることなく、職業や健康状態などが測られる。そこに悩みも悩みに伴う苦しみもない。決定権を全てアウトソーシングしているからだ。

槙島はそんな社会で、免罪体質と言われる、システムに認識されない異端者の存在であった。その存在ゆえに、社会の在り方に対し疑問を持ち、テクノロジーが現代よりもずっと発達したその社会で、古典的にも本を読んだり、哲学などの引用をよくする。

基本的にその社会では、人々は「犯罪係数」という犯罪を犯す可能性がある数値を一定以上超えると、犯罪を犯す前でも執行対象になる。執行対象になると、システムで管理された銃を執行官が打って、気絶させるか、殺されてしまう。しかし、槙島は免罪体質のため、いくら人を殺しても執行対象にはならない。
印象的だったのは、槙島が人質にとった執行官の友人をどれだけ痛めつけても銃が作動しないシーンだ。槙島は自身が使っているシステムに管理されていない現代の猟銃を執行官に渡す。しかし、いつも判断をシステムに任せている執行官は目の前で、友人が殺されそうになるにも関わらず、その引き金をひけないのだ。

槙島は人間の決定をすべてシステム任せにする社会に対して自由意志について自身の手を汚さない犯罪のスタイルでずっと観察していたように見える。

psycho-passのこのシーンは毎回見ても鳥肌もので、ずっと心に残る。全てをシステムによって適性で判断される社会。そう遠い未来ではなさそうと実感するから余計に怖い。

決定を自分ではない機械に任せていることが常識となった世の中で、槙島は私たちが生きる今の世の中よりも「自身で決定すること」に対して価値を置く。

その槙島の感覚が、分からないでもないなと思った。
自分でなにを選び、なにを選ばなかったか、それをどれほどの主体性をもってやってきたか。その中で迷いがあればあるほど、そして自分が決定した道を力強く生きている人を見るとと、美しいと感じるようになってきた。

この感覚、だれかと共有できるだろうか。

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