中学柔道の記憶(2007~2008)

①2007年春~夏

中学入学~柔道部に入る

2007年に小学校を卒業し、中学校に入学した。
中学校では野球はやりたくないと思っていたが、それは概ね以下の理由によるものだった。
・単純に野球に飽きた。小さいころから遊びでやっていて少年野球もやったので一区切りにしたかった。
・少年野球の同級生がみんな野球部に入るので、中学生という年頃と天邪鬼な性格もあり別の道に進みたかった。

ただ、これといって何をする宛てもなかった。
ギャグとして卓球部に入ると言っていたものの、当時嫌いだった教師が顧問と分かったため、見学にもいかなかった。

最初になんとなく見た目が格好良く見えた剣道部の体験に行ったが、竹刀を野球のバットと同じように左手を上にして持ったところ右を上にするよう言われたのでムッとして剣道部入りの線はなしにした。

続いて隣にあった柔道部に行ったところ、先輩も気さくで体験練習も楽しかったので入ることにした。当時は気軽に選んだが、今思えば大きな選択であった。
入部後、先輩たちの多く(全員ではない)が気さくで優しいのは体験時と変わらなかったが練習のキツさは全く異なっていて、気軽に選んだことを後悔することになる。

2007年当時の佐倉中柔道部、特に男子は県内でもなかなかの強豪だった。郡レベルの大会では当然の如く優勝していたし、北総地区の大会でも優勝していた。
中でも中学から柔道を始めたにもかかわらず強豪選手となっていた3年生で主将のT先輩は小柄であるものの技のキレや身体能力の高さもあり千葉県の強化選手となっていた。
後々、同期の多くはこのT先輩に憧れて入ったということを知る。
T先輩は後に大学受験で2浪することになり、大学は違えど妹さんと同級生になるという珍事が起きた。私は1浪してしまったので同級生になり損ねた。

柔道を始めてしばらくは受け身の練習ばかりで、たまに寝技を教えてもらう程度だった。後ろ受け身などは簡単に覚えられるが、前回り受け身は初心者にはなかなか難しく、反復練習が必要である。
私は合気道をしていたのもあり、同期の中では比較的早い段階で受け身の練習を抜け出して立ち技の練習に入れてもらうことができた。

受け身ができるようになると、できる練習も増えていく。5月頭くらいからは立ち技乱取りにも加わるようになった。とはいえ、初心者では先輩にかなうはずもなく、投げられてばかりである。

デビュー戦~総体まで

5月終わりくらいには初めて試合に出場した。ブロック大会と言われる参加校は自校含め3校という小さな大会で、毎年新入部員のデビュー戦となっていた。1年生は個人戦のみで、階級区分けも軽量・中量・重量とアバウトだった。当時私は身長160cm前後、体重50㎏に届くか否かというくらいであったので軽量級で出場した。
1回戦は同じ中学でかつ小学校の同級生、私よりもだいぶ小柄で非力なのは昔から知っていたので楽勝できるかと思ったが、初の試合ということでド緊張し、なかなか手間取った末に決まり技は忘れたが一本勝ちした。
2回戦もまた同じ中学の同期、TA氏である。彼は小柄な割に腕力があり、かつ俊敏さも持ち味であった。後に彼とは何度も対戦することになる。彼には背負い投げで技ありを取られ、敗れた。私のデビュー戦は1勝1敗で3位入賞であった。

ブロック大会後のある日、顧問は1年坊を呼び集め、左利きの者はいるかと聞いた。私ともう一人K氏が手を挙げたところ、2人とも今日から左組で練習するように、と指示された。私は左利きではあるがそれまで右組の先輩の言うままに右組で練習をしていたのである。やはりここでも左でプレーすることが後々に大きな影響を及ぼすこととなった。

ブロック大会後しばらくは1年生が出られる試合が無いため、目標もなくとりあえず練習をこなす日々が続いた。柔道部は同じ中学の他の部活と比較しても休みが圧倒的に少なかった。
入部して1~2か月も経過すると、1年生も部活内の人間関係の一部に溶け込んでいくことになる。私は良くも悪くも人間関係を気にしない方なので、特定の先輩と特別親しくなる、ということはなかったが、O先輩やM先輩には目をかけてもらったように思う。
どちらも女性の先輩で、当時M先輩には淡い恋心を抱いていた。なお、彼女は当時同じく柔道部の同級生のH先輩と付き合っており、卒業前後くらいでH先輩の子供を妊娠したとかで親に別れさせられたらしい。H先輩については後述する。
O先輩は厳しくもあり、体育会系的な感覚はこの人によって養われた部分もある。当時私は成長期を迎える前で、3年生の先輩などは皆巨人のように見えたものだが、女性でも比較的大柄なO先輩は私の目には仁王かなにかのように映っていた。

夏前くらいに、3年生が修学旅行で不在となる期間があった。なので1~2年生だけでの練習となるのだが、顧問も練習にいない時間はふざけ放題となる…はずだったが、H先輩は修学旅行にはいかず、学校に残って練習に参加していた。なので彼の指揮の元、まじめに練習せざるを得ない状況となっていた。なぜ彼が修学旅行に行かないかと言えば、彼は佐倉中柔道部にわざわざ移籍してきたハードコアな人物だったからである。なんでも元々別の中学に在籍していたのだが、とある試合で佐倉中のK先輩(これまた中学から柔道を始めた人物である)に敗れ、2年生の秋ごろに佐倉中の顧問の指導を受けに転校してきたのだという。そんな人物が修学旅行などに現を抜かすはずもない。このように柔道に真摯に取り組んでいたH先輩であるが、高校進学後に上級生の暴行を受け、柔道を辞めざるを得ない状況に追い込まれた。妙な忖度をしないタイプであったので睨まれたのかもしれない。全く残念なことである。

そうこうしているうちに夏の総体の時期がやってきた。が、1年生は出番が無いので雑用として帯同するだけである。
佐倉中の男子団体は郡大会では優勝したが、県大会ではベスト8に終わった。3位に入賞すれば関東大会に出場できただけに、惜しいことであった。
T先輩は55kg級で県大会を制し、全中出場と相成った。

夏休み~9月頃まで

総体が終わると代替わりである。慣例で夏の間は最上級生が日替わりでキャプテンを担当する(新主将は夏の終わりにM先輩に決まった)。
新チームの構成だが、2年生は2名しかいないため、必然的に残りの団体メンバーを1年生から3名出さねばならない。そのうち2名は体重や実力といった点からTY氏とOK氏に決定していた。残り一枠を軽量級で同期の中では比較的実力のあった私とTA氏、TK氏で争うことになる。ただし、当時私たちは団体に出たくてしょうがないなどということはなく、試合は緊張するので嫌だからダ〇ョウ倶楽部のようにどうぞどうぞという気持ちだった。

夏の間は基礎体力をつけるような練習がメインであった。なので、正直なところ面白くはない。今となっては柔術をやる際にも使えるソロムーブが含まれており有用なのでやっておいてよかったと思うが、当時は使う局面もろくに説明されないままただこなすだけであったため、ストレスが溜まっていた。

8月の初め頃、一度成田西中が来校し練習試合を含めた合同練習を行った。私は2戦2敗であった。西中の同級生に非常に大柄な人が2名もおり、度肝を抜かれたことを覚えている。

夏の終わりごろには新体制になって初の試合が予定されていたため、上述の残り一枠をかけた部内試合が行われた。私とTA氏、TK氏の巴戦である。その他のメンバーも試合をやっていたかもしれないがあまり覚えていない。
試合は連日行われ、最終的に戦績がよかった私が団体戦のメンバーに近づいた。

新体制初となる試合は佐倉市近隣大会だった。近隣と銘打っているが実際のところ柏や野田などからも参加があり、近隣だけの大会ではなく千葉県の北部~中央部くらいまでが範囲のそこそこの規模の大会であった。
この大会では学年無差別の団体の前に1年生の団体戦もあり、まずはそちらに出場した。メンバーは以下である。
先鋒:TK氏
次鋒:TA氏
中堅:私
副将:OK氏
大将:TY氏
私も階級としては最軽量の部類だったが、TK氏とTA氏は更に小柄であったので私より前にオーダーされた(当時中学生の団体戦は体重順、今は不明)。
1,2回戦に危なげなく勝利し、準決勝までコマを進めた。準決勝の相手は古和釜中で、小学校からの経験者が多い強いチームであったと記憶している。
実際、先鋒・次鋒戦を消化した時点でリードされた状態で私の番が回ってきた。わたしは大内からの大外刈りへの連絡技で一本勝ちを収めた。しかし流れを変えることはできず、結局準決勝敗退となった。

午後の団体戦では先鋒に起用された。1回戦で船橋中と対戦し、私は優勢勝ちしたがまたしてもチームは敗れた。その日個人としては全勝だったということで余りの大会役員用のお弁当をもらった。その10年後に同じく佐倉市近隣大会を見に行ったところ、岡田スポーツの岡田社長に弁当食おうぜと誘われ、大会役員控室で弁当を御馳走になるとは夢にも思わなかった。

夏休み最終週には埼玉で萌芽杯があり、今度はTA氏が先鋒として起用された。私はのんびり遠足気分である。
9月は公式戦がほとんどないが、代わりに銚子の方まで練習会に行った。
練習試合+元立ちという面倒なやつである。来ているのはほとんどが北総地区(印旛+香取+東総)の学校である。あまり細かくは覚えていないが、波崎一中との試合で負けた以外はほとんど勝ったと記憶している。

10月(新人戦)~12月

10月に入り、今度は新人戦である。県大会に進めるトーナメントと、郡大会のみの1年生トーナメントがあり、私は後者にエントリーした。準決勝まで進み、準決勝でもポイントを先行していたのだが、後半になって追いつかれ、判定負けした。始めて半年で頑張ったと言えばそうだがポイントを先行していながら負けたことはショックであり、当時猛省した。

新人戦郡大会では団体戦にもTA氏と共に起用された気がするが、あまり覚えていない。県大会に出場できていないので勝っていないことは分かるがどこで負けたかも覚えていないのである。ただ、このころから団体戦の先鋒の一番手として定着するようになった。

11月には学警連の大会というものがあった。佐倉警察署管内の地域の学校が参加する、部員全員が何かしらの試合に出るというような、ブロック大会に毛が生えた程度のかなりローカルな大会である。私は1年生団体と学年無差別の団体、それから学年別の個人戦にも出場した。1年生団体と個人戦は優勝、学年無差別の団体はよく覚えていない(参加校の陣容からみて多分八街中央中が優勝している)。個人戦の決勝ではTA氏を下したTK氏と対戦し、優勢勝ちをした。この時、生まれて初めて何かの大会で優勝した。

12月になり、東海大浦安高の招待試合に出場した。予選リーグで2校と対戦し、1勝1敗であった。
月末には初めての遠征合宿があった。群馬の前橋にある大きな体育館で日がな一日練習試合を繰り返すというものである。
プログラムなどが組まれているわけではなく、グループの代表者同士で話し合いをして場所と人を集めて試合をするという、なかなかカオスなものであった。グループの代表者は顧問やコーチのような大人であることもあれば中学生のこともあった。同じ学校でも複数のグループに分かれて試合をしていると、顧問がいろんなグループを往来する必要があるので、付きっ切りで見ることができず、そうした時は中学生が試合の約束を決めてくる必要があった。この遠征では勝ったり負けたりというかんじである。
年内の最終練習は柔道場の大掃除と餅大会である。
中学校はさすがに柔道部の一存で学校施設を開けることはできなかったので、学校の閉鎖と共に休みに入った。

年明け~年度末

2008年年明け~3月までで記憶していることはあまりない。
大会も月に1度あるかないかくらいで、相変わらず成績も芳しくなかった。
3月には鶴見杯という神奈川で行われる1年生大会に出場した。
予選リーグは勝ち上がったが、決勝トーナメント1回戦くらいで敗退したと思う。
なんやかんやで1年が過ぎ、新入生を迎える時期になった。

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