なきむしのありがとう

前の職場で私は、職員間で一番の「できない子」扱いでした。私自身も必死に何かに捕まって止まらないランニングマシンに乗って走らされてる気がして、マシンからよく落っこちて酸欠になって暫く動けなくて。例えるなら、そんな毎日でした。
前の職場は、老人向けのデイサービスです。老人たちの自由を前面に出し表向きは好評です。
しかし職員にとっては悪質な環境と、何故変えないんだろうというやり方をずっと続けていました。
自由すぎて軽度認知の方はよく抜け出すし、その為ずっと広大な館内を見て回る役の職員や、正反対までの館内への移動を無理だろというくらいに強いられてましたし、同僚にうまく使われて私はどんどん“穴”に落ちていきました。もっとありますがどうもうまく書けないので割愛します。その当時は自分が躁うつ病だと職場に隠して働いていました。
それでも、頑張れたのはやはり「人生の先輩たち」利用者さんの存在です。
発音がしっかり出来ない利用者さんのお一人、よくぼーっとしてた男性の車椅子で片麻痺の方が特に印象に残っております。
元来、人見知りだった私と少しずつお話を重ねていって、利用日は朝一番にいらっしゃるようになり冗談を言い合いながら今日の予定を決めていくのが救いでした。私の担当箇所をよく覗いてくれる…家族よりも身近に感じられる暖かな存在でした。
他の利用者さんも好きな方が沢山いました。
認知が徐々に進んでいるなぁと感じながらも、私のやや難しい名前をしっかり覚えて、この前のエピソードを話ながらアレンジしてみる人。こっそり分けてくれる人。
いつか「私に出来ないこと」を出来るように、きっかけを作れるように、苦手な仕事を振られても頬を叩いて、手をつねって、疲れと向精神薬の副作用と戦いながら働いていましたがついに糸が切れました。
どんなに年上でも同僚だと思ってた方に、ミスをした際に酷い言われようをされました。
…この時に、初めてこの事に納得がいかないことと、病気のことを話しました。
しかし、もう私は壊れはじめていたみたい…と言いますか、同僚の誰にも教えていないのにSNSのアカウントが上層部にバレていて問題になっていました。愚痴、苦悶、愚痴、病み、愚痴、愚痴、勿論嬉しいことや仕事以外のプライベートも書いてました。…私は呆気に取られました。辞めたいまも何処が出本か分かりませんしこわいので知らないでいいです…。
ともかく、私の怒りひとつよりSNSと共に「まだ出来ないことがあるお荷物さん」であるものを排除することを会社はすぐに勧めてきました。戸惑って返事に困っていると、最早自分の資格なんて要らないくらいのスケジュールになりました。左遷されるかやめるか。

問われたその瞬間に「辞めます。」と泣き崩れました。

もう一週皆さんに別れを告げる期間を設けるかと発案されましたが「すぐに辞めたいです、無理です」と、その週のうちに辞めることにしました。

その日から私は、本当に何人かの利用者さんへ「ありがとう」と「さようなら」を言って回りました。

気品のいい、お料理のアレンジを考えるのが好きなお婆様。
そっと帰り際に耳打ちしたら最後の最後まで手を繋いで眼鏡を押し上げて二人でひっそり泣きました。

ちょっと昔はワルかった、体格のいい歩ける片麻痺の若いおじさま。
よく私のマッサージを受けて下さっていたので、張り合いがなくなるなぁなんて笑って見送ってくれました。

ちょっと無口な、ほぼ全身麻痺の車椅子のお爺様。
「毎回俺の送迎、重くて大変だったろ?ごめんな」
ごめんって言いながら笑顔でさよならしました。

私のことを愛称で呼ぶお爺ちゃん。
どこかユーモアがあって、ルーチンをしっかり守る主夫みたいな方でした。
認知が顕著で、さよならしてもいつまで私を覚えているか分からないけれど、言い様がおかしいかもしれませんが歳の離れた親友のように感じていて、最後の送迎では彼が覚えている限りの思出話を沢山しました。

まだ、紹介したい方は居るのですが好きな利用者さんと嫌いな職場という思い出が拮抗しているので、最初に出した発音もしっかり出来てない片麻痺の車椅子のお爺様。
と言っても確か若かったかな。
併設の入居施設にお住まいだったので、職員間の別れをとっとと済ませてその方へのさよならを最後に向かいました。お互いにちょっとずつ話しながら無言になったり、最後にご迷惑かけたと思うんですけど何時間か本当にそこが嫌な思い出でいっぱいにならないで済みました。

うん。
絶対に今後ともあの施設に関わりたくはないですし、どれだけ知り合いが残っているか、もしくは覚えているか。

でもですね、最後に私の辞職を相談していた上司から一言、どうせろくなこと言われないだろうとぶっきらぼうに職員一同に挨拶したのち返された一言。

「彼女の頑張りは僕らの求めていたものとは違いましたが、誰よりも利用者さんに声かけられて真摯に応えて、一番好かれてたと個人的には見えていました」

びっくりしました。
本当に自分のいいところというものが見えてなくて。うつのループに嵌まって駅までの帰り道は泣いていました。
その上司から辞職を勧められたのに客観的にそんな風に見てくれていたなんて、これっぽっちも。

それから数年、やはり落ち込みましたが前の職場で唯一分かった「私は人に思った以上に信用や好意を頂けている、なら出来うる限りの仕事とありがとうの気持ちを伝えながら生きよう」と思うようにしています。
週5はまだ働けていませんが、今の職場では遣り甲斐のある仕事が出来ているし、職員の皆さんにお互い信頼を置けていると思います。

過去のちょっと辛くて楽しかった思い出と、沢山の関わって下さった人々と、今の職場と、躁うつ病という病気にも一応感謝します!

障がい者雇用で雇ったこと、今の所長たち忘れかけてないかなと思うくらいです。

たくさん、たくさん、
#たすけてくれてありがとう