喉仏

1
目が覚めた。隣には妻。僕は寝顔を見て安堵しその頬をそっとなでた。

「おはようさん」
「おはようちゃん」

いつも通りの挨拶。他愛もない会話。朝食。いつも通りのやり取りのあと、僕は仕事に出かける。

外に出て駅までの道すがら。同じ街並み。けれど音はなく。気配もない。そう。ここには僕以外、誰もいない。正確には僕と妻以外、だ。

僕は気付いている。ここが現実ではないという事を。ここが僕が望む現実である事も。

そして誰もいない街を抜け、無人で動く電車に乗り、会社に着いてたった一人の業務をこなし、同じ道のりを戻り帰宅する。

「ただいま」
「お帰りちゃん」

いつもの笑顔。夕飯を一緒に食べて他愛もない話をして、夜がふけて眠りにつく。まるで何事もない日常。ありふれてどうという事のない日常。

しばらくすると彼女の寝息が聞こえてきた。僕は心に痛みを覚えながら、また眠りにつく。

2
目が覚めた。隣には誰もいない。いるはずの人がいない。かつてあったはずの寝顔。何もない場所をそっと撫でる。

「おはようさん」

返る言葉はなく、窓の外は音で溢れていた。

支度をして外に出る。駅までの道すがら。通勤通学と思しき人たちは忙しなく、年寄りたちは朝の井戸端会議に花を咲かせていた。ここには誰もがいる。妻以外の誰もがいる。

僕は気付いていた。ここが現実だという事を。ここが僕の望んだ現実ではないとしても、こここそが現実であるという事を。

日常を生きる人たちの狭間を抜け、ひとり街を歩く。沢山の人で溢れた満員電車に揺られ会社に着けば、いつもの仲間がいて声をかけてくれた。

けれどもう。

この日常に。
この現実に。

妻はいない。

3
たった一つ欠けるだけで、世界はこんなにもぼやけてしまう。

それでも朝はきて世界は回り、夜を迎えて眠りにつく。誰かにとっての日常が穏やかに育まれていく。

僕は生きている。
愛する人がいなくとも。

胸に開いた穴は埋まることはなく、記憶はこの先もあの夢を見せるだろう。

それでも僕は生きている。
愛する人がいなくとも。

4
目が覚めた。隣には誰もいない。
けれど僕の中には確かに君がいる。

写真の中で変わらぬ笑顔。隣には白い箱。そっと中を開けた。一番上にはひときわ美しい白が一つ。

喉仏

それは優しく僕を見つめていた。
ただただ、僕を見つめていた。

「またね」

そう呟いて。
心の底から泣いた。

5
人生は続いていく。
幕が降りるその時まで。

そして僕はまた彼女に出逢うだろう。

何度でも。
何度でも。

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