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ノーメンネスキオー

染まる朱色
乱れ散る桜色

男は何かに縋るように空を掴む。

虚ろになり生気が失われる顔。
しかしその顔には穏やかな色が射していた。

伝えられなかったな。

それは男が発した最期の言葉となった。

※1day
起床。洗顔。歯磨き。湯を沸かす。
インスタントコーヒーを入れる。
パンをトーストする。
5分で朝食をとる。

ルーチン化された朝を流し、どこにでもいるサラリーマンといったスーツ姿に着替えた男は、いつもの通りアパートを出た。

男は名をN.N.といった。
勿論それは本名ではない。
ある組織の情報部に所属するもの。
その中でも末端に位置するものは皆、この名を与えられた。

個性を極限まで埋没させ、男は今日も裏社会へと出社していく。

雑居ビルの一室。ノートパソコンが置かれたデスクが並ぶその場所は、一見すればどこにでもある小さな会社の事務所にしか見えない。しかし、扱う情報は普通の会社のそれではない。そこにある情報は全て、組織の殺し屋が必要とするターゲットの詳細だった。

N.N.は情報を集める。それが与えられた役割だからだ。定められたデスクに付き誰と会話を交わす事もなくパソコンを開く。

いつもと同じ。

※2day
昨日と同じルーチンをこなしいつもの通りアパートを出た。

情報部の事務所へ入るといつもと違う光景が目に入る。この管轄を仕切る「チャット」と話をする男の姿。サングラスを掛けた優男といった風貌。初めて見る顔だ。情報部に来客など無きに等しく、他部署と接点を持つことを禁じられた末端の者にとり、知らぬ顔がいることは喜ばしい状況ではない。

チャットは喋るのが心底億劫だという顔を隠しもせず、N.N.の姿を見てとるやそちらに顎を出す。取り返しのつかないミスを犯したのかという絶望が頭の中を埋め尽くし、N.N.は近寄ってくる男に釘付けになった。

「君が担当者?確認しておきたい事があってさ。いやまぁ、本当はチャットに聞けばいいんだけど、アイツ喋んの苦手じゃん?で、ちょうど君が来たから直接聞く事にした。」

早鐘のように鼓動する心臓。まだ状況が飲み込めず言葉に詰まっていると、それに気付いた男は自分のスーツのポケットから袋を取り出しN.N.に手渡した。

「悪い悪い。別になんかしようってんじゃないんだ。本当に確認だけ。あっ、それオレが作ったメロンパン。メチャメチャ美味いから食べてみて。」

まるでその意図が分からず困惑は続いていたが、自分に与えられた役割を思い出したN.N.はできるだけ冷静さを装いながら、淡々と質問に答えはじめた。

「助かったよ。直接聞いて正解だわ。それにしてもよく調べたもんだ…。」

いまだ計りかねているN.N.にとっては、目の前の男がいつ豹変するのか気が気ではない。

「オレはフォルティア。君は…ああそうか…みんなN.N.か。わかりずれーな。」

思案顔になると途端に少年のような顔になる。

「名前…考えといてよ。次会う時までにさ。N.N.ばっかじゃややこしいから。」

それだけ言うとフォルティアと名乗った男はデスクを離れ、迷惑顔のチャットと一言二言交わすと部屋を出ていった。

どうやら本当に確認以外の他意はなかったようだ。あの男は間違いなく組織の実行部隊だろう。その風貌とは裏腹に死線を潜り抜けてきたもの特有の圧がある。一方でN.N.は不思議な感覚も持った。最初こそ勘違いから怯えが勝ったが、話せば話すほどなぜか安らぎのようなものを覚える。裏世界では決して感じることのないもの。いや感じてはならぬもの。それが歯車を狂わせる気がして、背中を冷たい汗が流れた。

いつもと違う。

※3day
起床。洗顔。歯磨き。湯を沸かす。
インスタントコーヒーを入れる。
メロンパンを袋から出す。
5分で朝食をとる。

いつもと変わってしまった朝。

N.N.はルーチンから外れる不吉さを感じながらも、どこか安堵していることに違和感を覚えた。フォルティアという男のせいなのか。答えの出ない問いに苛立ちながら、いつもと同じスーツに着替えアパートを出た。

同じ道を歩きながら昨日の出来事を反芻してみる。しかし考えれば考えるほどあの男が自分に接触してきた意味がわからない。何よりあのメロンパンだ。なぜメロンパンなのか。確かに美味い。組織の人間がメロンパン?全く意味がわからない。

そんなことを考え現実から離れた意識を戻すと、見慣れない光景が目に入ってきた。辺りを見回してみる。どうやら考え事に集中し過ぎて、いつもと違う道に入り込んだようだ。道路に隣接した公園から伸びる満開の桜。

「おかしなことばかりだ」

ひとりそう呟き、来た道を戻ろうと踵を返すと少し離れた場所に男が立っていた。本来なら警戒すべき状況だ。しかしあの男との出合いがN.N.のルーチンを、歯車を狂わせていた。まるで警戒もせずその男との距離が詰まる。向こうもまたごく普通の通行人といった雰囲気を纏いN.N.の方に近づいてきた。

ニ歩。
一歩。
すれ違う。
一歩。

何かに口元を覆われた瞬間、首筋に冷たいものが当たる感覚。そこで初めてN.N.は自分の過ちに気付く。引かれる冷たい波。それがナイフだと気付いた時には、灼熱が津波のように押し寄せ、目の前には朱色の海が広がっていた。

逆さまに映る男の後ろ姿。捨て去ったはずの記憶が蘇る。まだN.N.と呼ばれる前。犯した過ち。組織に拾われることで消えたはずの過ちは、決して消えたわけではなかった。ずれた歯車が全く別の運命を動かす。溢れる血に溺れ意識が薄れていくN.N.に、もはやその皮肉を嗤う力はない。聞き取れないほど小さな呟きを残し魂は肉体を離れた。

魂だけとなったN.N.はかつて自分であった肉体を見下ろす。

曖昧になる意識の中で鮮明さを増す記憶。

舞い散る桜。太陽の光。
その中にあの男の顔が浮かぶ。

俺の名は…

一迅の風が吹き虚空に消えたその名を聞いたものは、誰もいない。

FIN

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