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アニメーションと戦争『この世界の片隅に』評



1.私にとっての戦争

 最近、ふと思うことがある。戦争について私は何を知っているのか、そしてどのように感じ、何を考えただろうか。今、どんなことを考え、言葉にすることができるのか。いったい、私は戦争に対してどのように向き合えばよいのだろうか。

 戦争は確かにあった。それを私は経験していない。それは昔の人たちが今の自分たちとは関係なく、勝手にやったことで、私たちが今この時代に戦争について思いを巡らせたり、何かを考える必要なんてない、起きた出来事は歴史の教科書に載っている、それを事実として学べばそれで済むのではないか。今までずっと私もどこかでそう思っていたのかもしれない。しかし何かひっかかる。これは世代間の問題で済まされるのか。

 もちろん、当時実際に戦争を経験していた人たちがどんな生活をしていて、どんな思いをしていたか、現代の私たちはわからない。戦争当事者の言葉、戦争の映像や写真、戦争を描いた映画や小説など、どんなに優れた表現だったとしても、決して戦争そのものを描くことはできない。戦争には実態がない。私たちは物語で戦争をとらえることで何とかそのイメージをつかもうとしている。

 しかし戦争という現実はあまりにも重く深く厚い。思考しようにも結局はその実態には到底到達不可能であり、試みるたびにあまりにも巨大な出来事としての存在に思考が停止してしまう。その事実にどう向き合えばよいのか。戦争をどんな物語に置き換えても、どのように語っても、何か的外れで無責任な結論に落ち着き、現代に生きるあまりにもちっぽけな自分を実感してしまう。

 では、私たちは戦争の記憶を無残にも過去に葬り去るしかないのか。本当にそれでいいのか。その責任を放棄してしまうことに、やはり何かがひっかかる。

 過去は今と切り離されて存在しているものではない。私たちはたとえ同じ時代に同じ戦争を体験することができなくても、同じ土地に同じ国籍の日本人として生活する限り、かならず戦争の歴史から自由にはなれない。私たちは歴史というものを共有することで、戦争が起きた時間の流れの中に位置づけられている。我々は時間を隔てた戦争の当事者なのである。

2.戦争のイメージ

 このようにして、私はこの困難さと向き合い何かしら思いを巡らせ続ける必要があるのではないかと感じ、手始めに一本の映画を見ることにした。「この世界の片隅に」である。一見して驚いた。これは私の知っている戦争の固定されたイメージを更新するような、新しい物語だった。私の中で、何かが変わった。

 「この世界の片隅に」は、こうの史代の漫画を原作としたアニメーション映画である。物語は第二次世界大戦中から終戦までの広島を舞台に展開される。主人公のすずは広島出身で学生時代を地元で過ごす。すずののんびりとした性格は周囲の空気や人間関係も朗らかにする。豊かな想像力をもつすずは幼いころから絵を書くのが好きで、自分が見ている世界を現実と虚構が入り混じったまさに「漫画」のような表現で描いていた。18歳の時に呉に嫁いだすずの日常に徐々に戦争の影が忍び寄り、最終的に広島に原爆が投下される。

 私がはじめて戦争を知るのは小学校低学年のころだった。当時の担任がまだ戦争の歴史も知らない私たちに731部隊の話をした。詳しくは書かないが、我々日本人が外国人にたいして人体実験をし、残虐非道に沢山の人を無残に殺した話を聞いた。高学年になって教科書で日本が第二次世界大戦に参戦し、最後は広島と長崎に世界ではじめて原子爆弾が落とされ、敗戦したという歴史を知った。高学年の担任は、戦争についての教育に熱心な左寄りの先生だった。授業では教科書のほかに、戦争当時の映像をいくつも見た記憶がある。その当時、学校の図書館で「はだしのゲン」を読んで、戦争のつらく悲しいイメージと、そこで懸命に生きる人たちの物語にはじめて触れた。国語の教科書にも戦争についての物語がいくつかあったと思う。今考えると、小学校の頃が一番戦争について触れていたのかもしれない。

 おおむね、学校での教育を経て、わたしは戦争のイメージや物語を固めた。イメージは以下のようなものだと思う。
 
 ・戦争は総力戦であり、すべてが敵と味方に分かれて戦った。
 ・日本国民が一丸となって戦った。
 ・日本全体が狂気に包まれていた。
 ・戦時中は四六時中、常に暴力的で緊張状態だった。
 ・生活の隅々まで戦争に浸食され、日常そのものが戦争だった。

 私が感じていた一つのイメージとして、戦争とはひとくくりにされた国家という集団単位の対立、ということである。このことは私に、あたかも集団が一つの意思をもった統一体のようなイメージを抱かせた。つまり戦争とは国家の戦争というイデオロギーが国民全体を覆いつくしていた狂気だと思っていた。

 確かにそういったイメージも一部では間違っていない。しかし現実はもっと複雑だ。そこには多種多様な人々がそれぞれの目線、それぞれのレベルや熱量で戦争を見つめ、日々の生活を行っていた。戦争の暴力的な一面だけをとらえると、こうした細部が失われてしまう。実際には人々の日常の営み、その無数の断片、そうしたものが戦争のイメージの裏側にある。まさに、この世界の無数の片隅が、戦争という大きな名前の陰に覆い隠されている。

 私は、すずの懸命に日常を生きる姿を見て驚かされた。これはあまりにも当たり前の話だが、戦争中でも家庭は存在し、日常も存在した。そして家計を助け、家事をして、家族を支える、兵役に就く男性を支える女性の存在があることを今まで意識したことがなかった。わたしの見てきた戦争の物語にはこのような日常、そして日常を支える女性の存在が欠けていた。

 日常と戦争、その対比を見て私は戦争は男の仕事だったと感じた。男は会社に出勤するように、兵役に向かった。女性は男性の仕事を支えるように、家事をして家計を守った。戦争という男たちの仕事は、女性がいなければ成り立たなかった。そして、そうした女性たちの多くも戦争に巻き込まれてしまった。

 兵士の数だけ家庭があり、家族がある。このあまりにも当たり前なことが、私の認識から抜け落ちていた。私はこの映画を通して、少なくともそのことに気が付くことができた。

3.アニメーションが描く戦争

 ここまでは戦争の多面性に気が付いたという私の感想である。これについては、おそらく私が戦争についての一面的な印象しか持ち合わせていなかっただけで、他にも優れた映画や物語がたくさんあるだけかもしれない。それに加え、小説や実写映画などの表現であっても十分に伝えられることだと思う。ここからはこの映画がアニメーション映画であることの特異性について考えていきたい。

 私はこの映画が戦争を描くアニメーション映画であることに、一つの疑問が浮かんだ。戦争という現実を、アニメという虚構が描けるのだろうか、と。ここで、リアリティということについて、二つの表現形式を導入して考えてみたい。

 批評家の東浩紀は「ゲーム的リアリズムの誕生」のなかで「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」という二つの表現形式について言及している。(元々、この二つは評論家の大塚英二が導入した概念である。)「自然主義的リアリズム」とは現実を「写生」する「私」から始まる文学的表現である。主に「純文学」や「一般小説」などで用いられ、漫画やライトノベル、ゲーム以外のすべてのものに当てはまり、自然主義的リアリズムで描かれる現実は私たちの生きるこの現実とつながっている(という期待)前提がある。そこには「言葉」が書き手である「主体」と「世界」の間に「透明」に存在していることとされた。つまり「私」が「言葉」を使うことで現実が描けるという態度である。対して「まんが・アニメ的リアリズム」は「キャラクター」という「記号」に「身体性」を与えることで「自然主義的リアリズム」が描こうとした現実を別の形で、つまり非現実な「不透明」な表現でありながら現実を描こうとした矛盾が生んだ特殊な表現形式である。しかし我々は今やこのまんが的リアリズムに新しいリアリティを感じ、容易に感情移入するようになる。(長くなるので詳しくは「ゲーム的リアリズム」を参照していただきたい)

 我々が生きる現代はポストモダンと呼ばれている。それは端的にどのような状態かというと、それは現実が複数あるということである。近代以前、我々は世界を一つの現実だととらえてきた(とされている)。そこでは共有している世界(世界観)は一つだった。なので自然主義的リアリズムは言葉を通すことで、この現実を描くことができるという希望をもった。しかし、社会が多様になり我々の現実はより複雑で、その現実は各々の見る世界によって、むしろ複数存在しているという視座が導入された。

 そのため、この複数ある現実を描き出す手法は、自然主義的リアリズムに即したものだけである必然性は、もはや無い。私たちは新たにまんがやアニメを使った虚構的な手法を使って現実を描き出すという一見ねじれた表現にも、新しい現実を見ることができるようになった。そこでは時に自然主義的リアリズムの表現以上に、虚構にリアリティを感じてしまうという事態が起こる。ポストモダンを生きる我々にとって、リアリティは複数化した。

 このようにアニメーションの虚構性を我々はもはや自然に感じてしまうほどに、「まんが・アニメ的リアリズム」表現に親しんでいる。同様に私たちはすずに親しみを覚える。すずはまんがアニメ的リアリズムの手法に従って、自分なりに現実や世界を眺めているように見える。すずは想像力が豊かで、小さいころから虚構が入り混じったような現実を見ている。そして、見ている現実をそのまま絵に描く。すずの描く絵はまさに漫画のようなタッチで描かれており、それはそのまま私たちが見ている、この映画の登場人物たちと同じタッチで描かれている。

 これは、その虚構的な表現の中に、さらに別の虚構、すずの描く漫画のような虚構性を持った現実が描かれているように感じる(虚構内虚構、メタ物語)。私たちが漫画にリアリティを覚えるように、すずもそのように現実を見ている。ここにポストモダンである現代における、戦争の描き方の更新を見ることができる。

 戦争という現実に肉薄することはもはやできない。戦争の体験は個別的であり、もはやその追体験は全く別の現実でしかない。しかし我々はその新しいリアリティを通して戦争を記憶することしかできない。そこにはもはや一回しかない現実を記録することの不可能性がある。ここに我々の新しい想像力が試される。我々は戦争という現実を別の方法で「言い換える」ことでしか記憶できない。

 私がすずというキャラクターに見るものは、戦争という現実すらもはや虚構のように見えてしまう、ポストモダンな主体である。すずにとって戦争は「風景」である。遠くの海に浮かぶ船は、絵のモチーフであり、それ以上の意味を必要としない。すずにとっての意味は自分を取り巻く家庭とその日常の中にある。これは私たちにとっても戦争はもはや過去の風景でしかなく、すずは現代に生きる私たちの姿なのかもしれない。

 このように考えると「この世界の片隅に」という作品は、現代に戦争を描くことの不可能性を自覚し、近代的な時代背景のなかにあえてポストモダンな主体を描くことで成立する新しいリアリティにチャレンジした作品と言える。ここにこの映画の優れた表現を見ることができる。

4.戦争の中の日常

 もう一つ、この映画では2000年代に台頭した新しいまんが・アニメジャンルの表現を見ることができる。それは「空気系」や「日常系」と呼ばれるジャンルだ。主に女性キャラクター達の会話を軸に、大きな事件や出来事を伴わない何気ない日常を淡々と描くのが特徴である。その需要の背景には、もはや物語は必要なく、淡々とした日常にこそリアリティがあるという態度がある。しかしこの需要には別の欲望もある。現実は実は過酷であり、我々はその現実を直視しないために、あえて時間制の無い繰り返しの日常に逃げ込むというものだ。主に東日本大震災という現実に対する反発として台頭したという意見もある。

 このように考えると、この映画の中にも「日常系」というジャンルと似たような形式が描かれている。すずは戦争という過酷な社会状況や、結婚、嫁ぎ先でのコミュニケーション、家事の拾得、見知らぬ土地での生活等、様々な困難に身を置くことになる。しかしすずはそこでも持ち前のおっとりとしたキャラクターでマイペースを崩さない。辛さや努力を見せない。ただ淡々と日常を送っている。まるで日常系の「キャラクター」になることで、厳しい現実から距離を取っているようにも見える。

 しかし、どんな日常系のキャラクターを演じても、戦争は忍び寄る。戦争というものを描いている以上、それは避けられない。そして日常系のように時間制から自由であることもできない。現実に起きた空襲や原爆投下は歴史的史実として、刻一刻と迫ってくる。ここでまんが・アニメ的リアリズムがどうしても歴史という現実に直面してしまう臨界点に到達する。つまり自然主義的リアリズムとまんがアニメ的リアリズムが並行して描かれたなかで、それらが交差する瞬間が描かれるのだ。二つのリアリズムの交差点で、私たちはまんが・アニメ的リアリズムが描く虚構性に、戦争の歴史という真実が入り込む裂け目を見る。この裂け目にこそ、戦争の記憶がやどる。私たちが現代において、どのように戦争を記憶するか、その一つの可能性を示している。 

5.おわりに

 「この世界の片隅に」は以上のように多くの点で示唆に富んだ作品だった。オルタナティブな戦争の物語を描きながら、いまこの時代に戦争を描くことの困難さに自覚的であり、新たな表現形式で今描けるリアリティの可能性に挑んでいる。私はこの作品を通して、日本における戦争の記憶の保存の可能性に触れた。日本が育んだアニメーションという表現を使って、自国の戦争の記憶を保存する、それはきわめて日本的であり、いま日本の文化が最も高度に活用された、特異性そのものである。

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