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「この世界の片隅に」補論

 先日公開した『アニメーションと戦争「この世界の片隅に」評』のなかで私は「すずが見ていたものは戦争という風景だった」と書いた。じつは私はこの時あまり深く考えず「風景」という言葉を使っている。私は自分のイメージに従って「風景」という言葉を選んだ。そのイメージとは「ただそこに存在するもの」というものだ。しかしよく考えてみると、「ただそこに存在する」というのはいったいどういうことだろうか。この問いをめぐることで、改めて「風景」とは何かを捉え直し、この映画が描いた「風景」について新たな視座を導入することができるかもしれない。

 デジタル大辞泉によると「風景」の意味は以下の二つである。ー① 目にうつる自然の様子。ながめ。景色。風光。ー② その場の有様。情景。ー さもありなんという感じだが、しかしこの意味を成り立たせるある一つの条件を見付けることができる。それは「私」という視点である。「私」の目にうつる自然、「私」を起点としたその場の有様というように、風景にとって「私」が必要なのだ。

 批評家の柄谷行人は『日本近代文学の起源』のなかで日本の近代文学の開始を「風景の発見」そして「内面の発見」に起源としてとらえている。そこでは次のように述べられている。日本は明治に西洋文明の輸入により文明開化が推進され、主に海外の文学作品を翻訳することから見出された話し言葉と書き言葉を一致させる「言文一致」を取り入れることでそれまでの漢文による伝統(文語)から現代の口語に近い「です・ます」や「だ・である」調といった新しい文体が確立した。ここに日本の「文学」が誕生した。

 「言文一致」が「文学」を生み出したとはどういうことか。近代以前の日本では文語文という形式的な文体、書き言葉によって文章が書かれていた。それはつまり話し言葉で文章を書くという行為が存在しなかったのである。今日、私たちはある程度書き言葉と話し言葉を分けているとはいえ、基本的には話し言葉を基に文章を書いている。しかしそれ以前は形式に則った形で文章を書くのが当たり前だった。話し言葉で文章を書くことが何をもたらしたのか、それは「内面の発見」である。言葉を話す「私」が私の「内面」からの「声」を「書き写す」という行為、話し言葉で文章を書くことで「私」が起点となる新しい表現=文学が生まれた。これが日本近代文学=自然主義的リアリズムの誕生である。

 こうした「言文一致」による「内面の発見」と並行して、文学にある試みが生まれた。それはありのままを「写生」するというものである。自然、街並み、人々、「ただそこに存在するもの」をありのまま書き写す、つまりそれは客観的に描写するということだ。「風景の発見」である。しかしここに一つの矛盾が生じる。客観的に描写するということは、事物と「私」が究極的に疎遠になる必要がある。私という意識とは無関係に存在する事物をとらえ、私が写生する、そこには「私」という起点がどうしても必要になる。「風景」の発見は、「私」の発見から遡行的に見いだされる。「ただそこにある存在」には「私」が必要だったのだ。

 「風景」と「私」について補助線を引くことができたことで、「この世界の片隅に」評において私が「すずが見ていたものは戦争という風景だった」と書いたことに、ここで何らかの答えにたどり着いた気がする。

 前回、私は「この世界の片隅に」のリアリズムについて書いた。そこでは「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」が並行して描かれていることを指摘した。そこでは「自然主義的リアリズム」で描かれるものは戦争という歴史的史実の現実であった。しかし前回触れなかった、この映画で描かれているもう一つの「自然主義的リアリズム」的表現がある。それはまさに「風景」(背景)である。原作をアニメ化する際、監督の片淵須直が背景美術の再現性に徹底的に取り組んだことが知られている。片淵は戦時中当時の生活様式や小道具、設定時の呉の天候や飛んでいる昆虫、草花まで徹底的に調べつくし執拗なまでに描写した。まさにそこには「ただそこに存在する」ものを正確に「写生」することで映画の中の「風景」が立ち上がる。ここでリアリズムに話を戻す。先ほど私は「風景」とは「私」から最も疎遠なものといった。つまりそれはこれまで何度も言及してきた「現実」そのものではないか。私たちは「リアル」と思うとき、作り物ではない、ご都合主義ではない、私たちの期待や予想とは関係のない、私たちから切り離されたことと感じる。つまり戦争も人々の生活も自然も全て「風景」=「現実」なのである。

 「すずが見ていたものは戦争という風景だった」とは、すずが戦争という現実を見ていたことに他ならない。そして実はここには二つのレベル、二つの目線が隠れている。すずは戦争という風景を見ている、そして映画を通して私たちも戦争という同じ現実を見ているのだ。風景を見る起点、一つは物語レベルのすず、もう一つはメタレベルの私たち。物語レベルに位置するすずは風景を「すず」=「私」が「絵を描く」=「写生」ことで現実を描く夢を見る。まんが・アニメ的リアリズムの中で生きるすずは「私」を起点に世界を描いても同じレベルのリアリズムでしか世界を描けない。私たちが見るすずの絵はアニメ的な記号でしかない。すずの姿を通して我々が感じること、それはもはや私たちも同様に現実(戦争)をアニメ的な記号の補助線(「この世界の片隅に」)なしに捉える=記憶することができない事実なのかもしれない。
 
 前回、私はまんが・アニメ的リアリズムの表現にポストモダンに生きる私たちが感じることができるリアリティがあるといった。自然主義的リアリズムで表現される戦争という現実だけでは現代に生きる我々が成しえない戦争の記憶、そこにまんが・アニメ的リアリズムを導入することでリアリティが更新され、我々は改めて戦争という現実に出会いなおす可能性ができた。戦争という現実を描く困難さを自覚したこの作品は、同じ自然主義的リアリズムで表現される「風景」を見るすずと私たちに同様にある種の虚構を通してしか「現実」を見ることができないという転倒がある。「戦争」という「風景」をアニメーションという表現で描いた「この世界の片隅に」は、この現代に戦争を記憶することの可能性を見せてくれた、優れた作品であると改めて実感する。

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