#09 映画「オッペンハイマー」を観た:個人を描くことと、結果としての“アメリカ的価値観”の強化

満を持して日本での公開が始まった、クリストファー・ノーラン監督による最新作『オッペンハイマー』を初日に観た。

今の時点での感想を一言で表すならば、さすがノーランによる圧倒的完成度だが、“アメリカの人のための映画”だな、ということになろうか。以下はあくまで個人の勝手な感想である。

まずネタバレ…というか核心に触れない範囲で話してみると……。
「原爆の父」と呼ばれるロバート・オッペンハイマーはロスアラモス研究所初代所長を務めたマンハッタン計画の主要人物であり、映画では彼の栄光や挫折、苦悩や葛藤が描かれる。確かに前評判通り、彼の人間としての側面を徹底的に描いた映画で、観客は基本的にオッペンハイマーの視点で彼の人生を追体験していく。構成や映像表現、音響効果、俳優の演技など、どれをとっても映画として圧倒的な完成度で、アカデミー賞で(アメリカで)評価されるのも当然だろう。

しかし同時に、結局のところこれは、アメリカの人による、アメリカの人のための映画なのだ、ということを強烈に感じずにはいられなかった。劇中では、原爆の悲惨な側面や、その人類史的な意味に対する解釈とも言える描写はある。おそらくノーランは原爆の実際の凄惨さを想起させるものをある程度描こうとしているし、それは一定程度成功しているとも思う。でもそれは、私を含め日本で教育を受けて原爆とその被害の様相に関する一定程度の知識がある者が見た場合に感じることができる程度であり、それは結果的にエクスキューズの範疇を出ないようにも感じる。

作品などで原爆を題材にするさいには、「人間の止めることができない自然科学への探究心」と「科学技術の社会実装」との間のジレンマにどう対峙するかという点に、どうしても触れざるを得ないと私は思う。この映画はその問題を、オッペンハイマーという個人を徹底して掘り下げることで見つめようとするプロジェクトに見えるけれど、結果的にその成否は微妙か、むしろ失敗しているように思う。

それはつまりこの映画が、原爆投下という出来事に対して、その悲惨さよりもむしろ「多くの死者を出したとはいえ、大戦終結に寄与し、結果的にはより多くの被害を生むことを防いだ」という評価を重視する人々にとっては、結果的にではあれ、その価値観を強化する装置になるのではないか、と思うからだ。

観客はこの映画でオッペンハイマーの視点を通して、人類が核兵器を手にしたことによって今の私たちはもう後戻りできない世界に生きているのだということを知り、そのことに対する責任や葛藤をある意味引き受けることになる。同時に観客はその責任や葛藤を引き受けることで、原爆開発という巨大プロジェクトに対する、プロジェクトX的高揚感を得る免罪符を手にいれることになる。しかしその責任や葛藤には、あくまで「キレイゴトとしての」という補足がつくだろう。なぜなら、それは現実を知ること・知ろうとすることを通してではなく、オッペンハイマーというひとりの人間の持つ両義性に共感と非難を与え、彼を“プロメテウス”に仕立て上げるという手続きによって得られたものだからだ。プロメテウスは、天上の火を盗んで人間に与え、その罰として永遠に苦しみ続けるギリシア神話の神をさす。

以下は、ネタバレ的な内容を含む。
物語は戦前〜トリニティ実験〜原爆投下に至るメインのストーリーと、戦後の2つの象徴的な場面からなる3つの時間軸が交錯しながら展開される。時系列が入り乱れながら進んでいく構成はザ・ノーラン作品といったところ。実は戦後の時系列のうちの一方では、私怨からオッペンハイマーを貶めようとするルイス・ストロースという人物に焦点を当てて場面が展開される。このことはかえってオッペンハイマーの人間像に立体感を与えているように思う(ちなみに、おそらくストロースに焦点を当てている部分はモノクロで表現されている)。

観客はオッペンハイマーという人間の、ナイーブで尊大で、才能に恵まれ、無防備だがやがて政治的狡猾さも身につけていくさま—―いわば“人間味”に対して共感する。あるいは、時代的背景から倫理観が現代とは異なることは理解しつつも、女性に見せる不誠実さーーある種の男性的な自己陶酔性というか自己欺瞞性みたいなものに苦い感情を抱く。あるいは、人類史的な巨大プロジェクトを推進するに至ったある種の不可抗力性と原爆投下という結果を目の当たりにした後の贖罪的な振る舞いに対して、アンビバレントな感情を抱くだろう。戦後の不遇に対しては、気の毒だとさえ思うかもしれない。

映画の中で、彼自身は原爆投下という事実が引き起こした惨劇に恐怖し、実際に戦後核不拡散のための活動に転じることからも、矛盾を孕みつつも自省的なプロセスがあったはずだ。そしてそれは例えば、彼が現実と妄想の世界の間で垣間見る、黒い雨や死の灰、炭化した遺体を思わせる描写として表現されているのだろう。しかしそれは日本で原爆に関する被害を一定程度学んでいるからそう見えるのであって、そうでなければそのような意味を持つ描写とはわからない可能性も否めない。例えば死の灰と思われる描写は、繰り返し用いられる銀河の星々の表現とも重なるし、良くも悪くも一義的ではない。唯一直接的な表現としては、少女の皮膚がめくれるような描写があるが、それもなんというか、とても「きれいに」描かれているのだ。その少女を演じたのはノーランの実の娘であるというエピソードから、もちろんノーランが生半可な覚悟で描いたのではないのは確かだが。

おそらく人間が人間を殺すプロセスに対して人々が抱く恐怖や憎悪の度合いやそこから得られる教訓の大きさは、その殺戮の方法や「罪」の所在の明確さに大きく依存しているように思う。つまり人々はより残虐な方法で殺されることに対して、当然ながらより恐怖や憎悪を感じ、より大きな意味づけをおこなう。その意味では、日本で教育を受ければ原爆は人類史上類を見ない残虐なものであるという印象を持つ人が多いだろう。他方の視点から見ると、原爆は直接的な戦闘で民間人を殺すことよりも、そしてホロコーストでユダヤ人を虐殺することよりも、ずっと“マシな”殺し方だと思われているのかもしれない。ノーランは、原爆の現実の悲惨さの度合いをノーランが思うのと同程度に観客に理解させるには、この程度の描写で必要十分だと考えているのだと思う。でもノーランが思うほどに(少なくとも日本以外で)それは伝わらないと思うし、そのことは結果的にではあれ、むしろ原爆の功罪の「功」と思われている部分を強化してしまっているようにさえ感じる。

さらに、原爆に関してはそのプロジェクトの巨大さゆえ、「罪」の所在も不確かだ。国家が戦争に突き進む中で原爆投下のような人類史的な大事件に至ったことに対しては、その責任を特定の個人に還元できるものではないし、それは人間の集合である社会の構造的な問題によって生み出されたものだ(もちろん、だからと言って個人になんの責任もないわけではないが)。

あくまでこの映画はオッペンハイマーという個人に焦点を当てたもので、原爆投下の是非が主題ではない。しかし、(原爆に限らないが)作品が歴史上の悲惨な出来事を扱うとき、それが物語の主題かどうかにかかわらず、作品がその出来事をどう評価しているか、どう扱っているのか、単なる舞台装置ないし道具的に消費しているだけなんじゃないか、という視点をまったく排除して観ることはできない。特に、私を含め被爆国である日本で育った者にとって、完全にフラット(そもそもそんな立場はないけれど)にこの原爆を扱った作品を観ることは難しい。史実に関することを、歴史的・社会的・文化的文脈から切り離して見ることはできない。

オッペンハイマーは戦後、ストロースの私怨と「赤狩り」の影響もあって理不尽な処遇を受ける。観客はどちらかというとストロースよりもオッペンハイマーの側に立ち、ストロースを嫌な奴だと感じるだろう。そして最終的にストロースが失脚することに拍手ないし安堵するのではないかと思う。一方で、この映画においては、皮肉にもオッペンハイマーにプロメテウスという悪名とともに免罪符を与えたのはストロースでもあったと思う。そしてその免罪符は同様に観客にも与えられることになるのだ。

私はクリストファー・ノーラン監督の結構なファンだと自負しているし、彼のこれまでの作品を何度も何度も繰り返し見てきた。その上で、ノーランほどの監督であれば、オッペンハイマーという個人に焦点を当て、そして個人ではどうしようもなく社会や時代に翻弄されるさまを描きつつ、同時に戦時下の狂気が科学技術の社会実装に与える構造的な「罪」の部分や、それらは本質的には過去のものではなく、この世界と連続であることを、より明確に描けたのではないかと思う。そのようなことをよりわかりやすく描くことは、ノーランにとって表現を陳腐にすることかもしれないが、現実問題として多くの観客はノーランよりもはるかに科学や歴史を知らない。その意味で、この映画は極上の映画体験を観客に与えるとともに、制作意図に沿ってか反してかはわからないが、結果的に原爆に対する“アメリカ的価値観”を静かに強化しているように感じるのだ。

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