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#05 死ぬことと生きることについて考えること

最近SNS上では「命の選別」についての議論が噴出している。これは高齢者福祉、障害者福祉、などを考える上で避けては通れない。ーというのも現代に生きる我々はどうしても経済的な価値観に当てはめて考えるクセがあり、それへの態度としてどうあるべきか、ということは世界を認識する上で根本的な問題であり、今一度検討しておく必要がある。本当に容易に、我々は選別の思考に陥ってしまうからだ。

念のため、私は特定の信仰を持たないということを初めに記しておく。これから書くことは、これまで何度か死にかけた自身の経験及び、科学や哲学についての(途上である)学びから思うことであり、そして不完全なものであることは断っておく。

ただ、現時点での結論は至ってシンプルで、単純に、生きて死ぬ命という現象が経済的な尺度で測りうるものではないという極めて当たり前の事実に帰着する。それは本当に当然のことなのだが、我々はどうしてもそれを忘れてしまう。そして、容易に差別的・選別的な思考に囚われる。この葛藤が存在すること自体は認めた上で、どのように向き合うかを考えねばならない。

さて。
私は先天性の心臓疾患を持っている上に、何故だかおよそ10年おきにそれぞれ別の、そして聴き慣れない肺の病気を患ってきた。そして、ちょっと今回は死んでしまかもしれないな、と思いながら、しかし毎度悪運強くこうして生かされている。病気になり回復した時には、ありていに言えば普段生きていられることの有り難さを痛感する。言葉で表すと陳腐であるが、やはり普通に歩いたり、ものを食べたり、ひとと話したりできるということは奇跡的なことであるということを、実感として理解する。ように、思う。その時は。

しかし、どうにも愚かしいのは、それをすぐに忘れてしまうのだ。すぐに不摂生になり、ビールやコーラをガブ飲みし、他者への感謝を忘れ、図に乗る。最初のうちは、そのことを自覚し、自身の学習能力の低さを恥じるが、やがてそれすら忘れてしまい、好き勝手に過ごす。完全に忘れた頃に、また病気になる。そしてその時だけ自身の振る舞いを反省し、神頼みし、例えばもうビールは飲みませんからと願を掛け、感謝し、一時的に謙虚になる。ああ、コーラがビールに置き換わっただけで、10年前とまるっきり変わっていないじゃないか。

それはさておき。それでも断片的にではあれ、感覚的に刻まれているものもある。死は異界のものではなく、生のすぐ隣にあり、それは二元的でなく連続的であること。それから、自己を規定するものの不確かさ。全身麻酔で意識が全く無くなるとき、もしかすると自分はこれっきり戻ってこないかもしれないのではないかという感覚。体が回復したとしても、今、このことを考えている自己が失われないとは限らないということ。生と死を隔てるものや、自己を規定するものは、容易にどろりと溶けて消え去ることを。


命は経済的尺度で測れない、ということは、字義通りお金では測れないということ以上に、我々の通常の理解の様式と別であることを意味する。基本的に我々は、物事を区別し、名前をつけ、分けること、差別することで理解する。分別知、と呼ばれる理解の様式だ。資本主義というのはこれの最たるもので、良くも悪くも差別することによる世界認識に根差す。これは近代的な資本主義以前から、つまり封建的な社会であっても基本的には変わらない。物事を対象化することで、我々は文明を築いてきた。それ自体は善悪ではなく事実としてそうだということをまず理解する必要がある。

現代社会のあらゆる価値を考える上で、ネオリベラリズム的な分かりやすさは使い勝手がよく、便宜的であれ共通のような価値体系を築くものとして、それが極めて自然で元々あるもののように身体に染み込んでいる。だから、容易に陥るのであるーこの命の価値はどれくらいか?という問いに。しかしその問いはそもそも成り立たない。例えば目に見えない空気を、物差しで測ろうとするようなものなのだ。にもかかわらず、つい議論してしまうのだ。どちらの命が価値があるかを。


そもそも、生きることや命それ自体に意味や価値などない。我々が便宜的に用いている意味や価値ーそれが多くの場合最終的に経済的価値に帰着するーは、幻想であって、そんなものなどありはしない。生きて死ぬことは意味もなければ価値もない、大事でもない、ただそこに在る(ように思われる)現象だ。つまり分別して理解するべき対象ではない、いわば無分別的理解様式を要求するものなのだ。(しかしこのことは絶対的に非言語的であり、そのことを言語で表現すること自体に矛盾を孕む)


”それ”はただそこに在る(ように思われる)だけだということは、おそらくこの世界で真に理解することはできない。そのような理解に耐えるように世界はできていない。せいぜい、どろりと融解する自己の境界で、無分別知のわずかな影を見る(あるいはそのように錯覚する)ことが関の山なのだが、しかしそうして初めて、逆説的ではあるが、生きて死ぬ意味や価値的なものを自由に規定できる(ような気がする)ようになるのではないだろうか。生半可な知識で書くのは躊躇われるが、これはある意味禅的な理解の様式なのかもしれない。

このような思考のプロセスは、はっきり言って何の役にも立たない。しかし、身体に染み付いた分別知の理解様式を壊すことを試みることは、既存の世界認識を相対化するために無駄ではないだろう。生と死からなる現象を、分別知の外に置くよう努めるための方法論として、禅的なるものがあるのだと理解するが、とはいえあまり実用的なライフハックではないのかもしれない。実際的には…陳腐な表現だがー、生きて死ぬことをなるべくフラットに見ようとする姿勢が必要なのではないか。生きて死ぬということが一体的であり、境がなく、連続的であることーそのことをすぐに思い出せるように。それをそばに置いておくことは、大いなる安心感とともに、どろりと溶ける無分別知と自己の喪失への恐怖と畏怖を一緒に住まわせるということになるだろうか。しかしそのようにすることでやっと、わずかではあれ、現実の世界においても、命の価値は測れないことを理解できるーような気になることができる、のではないか。

命はお金で測れない、と言葉でいうことは簡単なのだが、基本的な理解の様式が分別知による体系であることを踏まえると、その俎上においては命の選別を容易に論破することができなくなる。我々は身近にあってしかし理解に苦しむものを異界・異形のものとして見ようとしなくなる。死や、生は実はその最たるものだろう。上述の議論に打ち勝つには、”それ”をただ見つめ、ただ在るものとして理解しようと努める、そのことによる安心感と恐怖・畏怖をすぐそばに住まわせることを引き受けなければいけないことを意味する。しかしそうすることで、初めて、我々は自由に”それ”への意味や価値を規定できるようになる。生きやすくなる、というのはこういうことなのではないだろうか。


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