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『子供の宇宙』基礎教養部

この記事は『子供の宇宙』と以下記事を読んで書いたものです。

私自身の子供のころのことを思い出したり、子供ができたらどう接するのかなど色々思う事があったので、この記事では私が思い出せる範囲で幼少期のことを振り返ってみて、合わせて子どもについても考えれたらと思う。

私の幼少期

いわゆる悪ガキと呼ばれる類の子供だった。やりたいと思った時には体が動いてしまって毎度怒られていた。中でも二つ特に記憶に残っている出来事がある
・車の上ピクニック
車の上で遊びたくなった私は、いつも一緒に遊んでいた4人のお友達と、お友達のお家の車の上で遊ぶことにした。軽自動車の上にブルーシートを敷き、お菓子やトランプも用意した。ママチャリのサドルを踏み台にしてみんなで協力しながら登ったのだが、最後の1人が車の上に乗ってすぐに車がベッコリ凹んでしまった。

・屋根の上鬼ごっこ
小2の時、屋根の上で鬼ごっこしていた。ダッシュで追いかけてくる鬼から逃げるために隣の家の屋根に飛び移ろうとした幼馴染が足を踏み外し逆さまに落ちていった。すでに隣の家の屋根に飛び移っていた私はそれをそばから一部始終見ていた。運よくプラスチック製のデカゴミ箱がクッションになってくれたので、2ヶ月の入院でその後何事もなく完全復活してくれたのだが、本当に危なかったと思う。

どちらの出来事も大変なことをしでかしてしまったとわかっていたので、家に帰ってすぐお母さんにことの経緯を伝えたのだが、思いもよらないことだったからか、私の伝え方が悪かったせいか、最初はほとんど何も言われなかった。ただ、どこかから電話がかかってきて、母親がその電話に応答しながら鬼の形相に変わっていったのはとてもよく覚えている。どちらもなぜそんな事をしたのか聞かれたが、答えられなかった。動機を答えてもどうせ怒るでしょという思いもあったが、そもそも自分でもなぜやったのかわからなかった。ただそこに屋根があったから遊んでいた。大人の想像の範囲を超えられた時の子供への対応は難しいだろうと大人になってから気づく。親になったらどのような対応ができるのだろうか。

子供から大人へ

「宿題やってないからポケモンは見れません。それまでにやってないのが悪いんだから。」親からのポケモンストップで、小さい頃はこの世の終わりかのように泣いていた。今でもポケモンは好きで、最新のポケモンを追いかけていたり、時々アニメも見たりするのだが、今となってはなぜ泣くほどポケモンを見たかったのかその気持ちがまるで理解できない。ポケモンの例で大袈裟かもしれないが、人は変わってしまうのだなとつくづく実感する。大人になるという過程の中で、子供の頃に持っていた重要なものを失ってしまっているようにも感じる。やるべきことをギリギリまで先延ばしにする腐った部分だけが変わらず残ってしまった。

子供への接し方

私自身の子供の時の気持ちや考えを思い出すと、割としっかり自我があったように思う。大人にされて嫌だったことを自分が人にしないよう心がけていたり、疑問に思ったことは1人で考え込むような子供だった。最近子供と絡む機会があるのだが、その子供たちに対して自我のある1人の人間として接することができているかと言われればやはり子供扱いしてしまっている。嫌な大人になりなくないと思っていたが、もうすでに子供の頃に感じていた嫌な大人の仲間入りをしているのかもしれない。宇宙を持った子供たちにつまらない大人と識別されているならかなり寂しい。

大人の宇宙

「大人である」と「宇宙を持つ」は両立できるのか考えたのだが、これは不可能である。「宇宙を持つ」は子供しかできないのだ。成人してからも宇宙を持ち続けている人はよっぽどの変わり者なのだと思う。その変わり者を面白いと思える感性だけは大人になっても持っておきたいとは思うのだが、私はもうすっかり大人になってしまったのかもしれない。

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