シーシュポスの神話【基礎教養学部】

本記事は『シーシュポスの神話』と以下書評を読んで書いたものです。
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本書の著者であるアルベール・カミュの哲学は「不条理の抵抗」と呼ばれている。
「不条理」とは、人間は死という不可避の運命に直面している等の理由から人生は不条理であるというその不条理さことを指しており、
「抵抗」というのは、「不条理」を受け入れつつもそれに抗って、生きる意味を探求していくことである。

「不条理」を受け入れようとする人間が「絶望」に直面することも不可避であると主張したが、それでもなお、人間は抵抗し、生きる意味を探求すべきだと論じた。
「抵抗」しろと言っているのだからもちろん自殺は否定している。
「絶望」により自殺という選択肢も考えうるが、自殺は生の無意味さや絶望に対する極端な反応であり、「抵抗」とは対極の位置にあるからだ。

『シーシュポスの神話』では、シーシュポスが永遠に岩を転がす刑罰を受ける運命にありながらも、その不条理な運命を受け入れ、意味を見出すことで自由を実現することができるという考えが描かれている。

不条理な世界に屈することなくむしろ絶望と共に生ようと考えていた点で勇者のようだ。それかかなりのM気質だったか。どちらにせよ最近逃げてばかりの私にとってカミュの考え方はとてもかっこよい。


書評ミーティングにて

書評活動の一環として月に4回、同チームのラボメンとミーティングを行なっている。
そのうちの1回は書評の進捗確認や事務連絡以外の活動を行うというルールがあるのだが、そのミーティングが先日19日に行われた。内容は「なんのために生きているのか」と「死ぬ前にやりたいこと」を考えるというものだった。

誰もが軽くは考えたことがありそうな話題だが、いざ考えてみると意外にも難しく出てこない。特に生きる理由については答えが無いものなのかもしれないとも思った。ミーティングの中では家族と答えはしたものの、果たして家族がいるから生きているのだろうか。

ミーティングの後振り返ってみたが、本当にそれが生きる理由になりえるか少し考えてみた。家族はいれば楽しく生きていける。楽しく生きていけるだけであって家族がいなくても生きてはいけるし、生きるだろう。
○○(終わりのあるもの)を生きる理由としたときに〇〇がなくなってしまったら終わりである。終わりというのはカミュの言葉を借りるなら「抵抗」していないということだ。
〇〇と自分が一緒に終わるというのは考えにくい。自ら命を絶つという選択肢も私の中にないので、〇〇は答えになりえない。
ではなんのために生きているのか。

「途中」

答えがなくても無理やりにでも形にしたかった今の私がいきついた回答は「途中」だ。念のための断っておくが、終わりのある「途中」は存在しないので「途中」は〇〇ではない。「途中」を言い換えると抵抗している状態ともいえる。また、生きている状態も死というゴールの「途中」と考えれば「なんのために生きているのか」の回答として生きるために生きていると言うこともできる。言葉にすると変ではあるが、生きることそのものが、生きる目的であり、「抵抗」であるというのは個人的にしっくりきている。

やりたいことの方は結構あるようだ。具体例でいくつも挙げることができた。しかしこれも「死ぬ前に“絶対”やりたいこと」となると途端に何も出ない。絶対となると別にやりたいことはないのだ。
にもかかわらず、日常生活で今その瞬間を全力で生きるというのは難しい。大きく見れば絶対やりたいことはないはずなのだが、小さい欲に負けて今その瞬間やるべきことから逃げてしまう。
ただ、これも上記の理由から自殺以外は逃げていないという考え方もできる。生きるために生きるいわば答えのない人生の中で、その瞬間に自分が選択してやっていることこそが今その瞬間を全力で生きているという風にも言えるかもしれない。
という日常が怠惰すぎる自分の擁護で締めくくらせていただきたい。

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