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祖父について書いてみたら、自分が死ぬ時に何を遺したいかがわかった

先日他界した祖父のことを、ふと書きたくなったのでここに残しておこうと思う。

わたしの祖父は、2021年6月22に亡くなった。享年85歳。死因は肺気腫。たぶん未成年の頃から吸っていたであろう煙草をこよなく愛し、病院嫌いで、亡くなるまで数えるほどしか病院には行かなかった。

九州男児で亭主関白。祖母も意地っ張りなところがあり、祖母とは喧嘩が多かった。心配性のため、自分の子供たちにはいつも小言を言う。孫たちには激甘。そんな祖父だった。

生活歴

九州は佐賀に生まれ育つ。子供の頃は、身体が大きく喧嘩が強かった(本人談)。勉強も出来たが、優秀な成績が記された通信簿を親に見せても、仕事が選べなかった当時、褒められることはなかったそうだ。中学(祖父は、新制中学と言っていた)を出て、炭鉱夫として働く。曽祖父がギャンブルに狂ってしまったため、崩落事故に怯えながらも、若いうちから生きるために懸命に働く。当時日本全体も貧しくて娯楽もあまりなく、時には仲間と安い酒を浴びるように飲んで憂さ晴らしをする。また、当時野外で上映されていた映画を観ることが、数少ない楽しみの一つであったとのこと。食堂で働いていた祖母と結婚。

エネルギーが石炭から石油に変わっていくにつれ、炭鉱が閉鎖されていく。食えなくなることを危惧した祖父は、親戚等から旅資金をカンパしてもらい、妻と子ども2人(私の母と伯父)を連れて、仕事を求めて東京へ。上京当時は貧しくて背広が買えず、冬でもシャツ一枚で出勤したこともあったそうだ。自分の社会的地位について祖父は、学歴は中卒だが、大学出の人と一緒に働いたのだと自負していた。きっと持ち前のユーモアや繊細さを武器に、すごく頑張ったんだと思う。

いつも家族を愛した祖父

癇癪を起こしたり、小言が多かったという祖父。伯父がグレて暴走族に入った時は、鬼の形相で家の前の通りに立ち、高速で走り抜けるバイクの中から伯父を探し、履いていたサンダルを投げつけた。伯父が職につき結婚した際には、結婚式で新郎父がチュチュを着用して白鳥の湖を踊るという伝説を残した。
孫たちに会うといつも割れんばかりの笑みをうかべ、沢山可愛がってくれた。私たち孫が幼い頃泊まりに行くと、布団の中でいつもおちゃらけた自作のストーリーを意気揚々と語ってくれ、孫たちは皆ツッコミを入れながらも、心の中では楽しみにしていた。お年玉や小遣いも、私が随分大きくなってからもくれた。年金暮らしで裕福でないので、嬉しくも恐縮していた。しかし、いつも袋にユーモアたっぷりのメッセージや自作の俳句(下品なものが多かったがw)を残してくれており、書いている時の祖父を想像すると、受け取らないわけにはいかなかった。

祖父の死因

コロナ禍で孫や曾孫に会えなくなって、祖父はみるみる衰弱していった。しかし、コロナウイルスに罹患してしまってはお互い大変だからと、一度も来て欲しいとは言わなかった。そして、3度目の緊急事態宣言が明けた直後に息を引き取った。祖父が私に会いたがっていると母から聞き、仕事終わりに急いで向かっている途中の知らせであった。祖父はコロナウイルスに感染してはいないが、祖父の死因はコロナの影響で孫たちに会えず、生きる活力を失ったことであると、後に祖母が語ってくれた。
当時はワクチンもまだ供給されておらず、高齢である祖父の重症化を危惧して会いに行くのを控えていたのだが、私は今も、会いに行かなかったことを後悔している。行けばきっと、いつものあの満面の笑みで迎えてくれていたに違いない。

祖父が遺したもの

祖父が私たち孫に遺した財産。それは、家族を全力で愛した生き様と、数々の言葉であったと思う。

私が今になって1番重要だと思っている祖父の言葉は

「本を読み、ニュースを考えろ」である。

私は忙しさにかまけてあまり本を読む方ではなかったが、祖父が亡くなってからふとその言葉を思い出し、現在実践している。そうすることで、祖父が自分の中に生き続けるような気がした。だが、色々な本に触れてみて、私にこの言葉を遺した祖父の気持ちがわかり、今、たまらなく嬉しいのだ。きっと祖父は、「これから社会がどうなっていくかはわからないが、しっかり自分の頭で考えて家族を守り、幸せに生きろ」と、私に言いたかったのではないか。

どう死ぬかは、どう生きたかであると思う。自分が死ぬときも、祖父のように、残される人に惜しまれながら死にたいものだ。

私は今日も知識を得て、変わりゆく世の中について考えながら生きていく。また、私も子供たちには、祖父と同じようなものを遺したいと思う。

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