はじめに --3.11を契機として--

 2011年3月11日。日本中の誰もが、いつもと変わらぬ午後を過ごしていたはずだ。

 ぼくも、さいたま市の自宅兼仕事場でいつものように遅い昼食を済ませ、PCのモニターと向き合い、仕事に取り掛かる前のウォーミングアップがてらに、どうでもいいようなことをツイートしていた。

 ふいに椅子が左右に揺らぎ、急な目眩に襲われたかと思った。だが、すぐに大きな横揺れが起こり、地震だとわかった。最初に目眩と錯覚したのは、それがいきなり横殴りされるような地震ではなく、時間の経過とともにどんどん振幅が大きくなってどこまでその揺れが増してくるのかわからないようなものだったからだ。椅子から立ち上がることもできず、机を掴んで体を支えながらPCのモニターが滑り落ちないように必死で押さえていた。

 茨城県南東部、通称”鹿行(ろっこう=かつて鹿島郡と行方郡という二つの郡があり、これを合わせて呼ばれた)地区”は、昔から地震の多いところだった。鹿島灘沖の断層がよく動くところとして知られ、震度4程度はあまり珍しくなく、震度5の地震も時々起こった。ここはぼくの郷里で、いわば「地震慣れ」していたのだが、この揺れ方と長さは今まで経験したどんな地震とも異なっていた。

 異常な揺れに、これはとんでもない天災が起きたと直感した。そして、途方もなく長い揺れが収まると同時に、反射的にキーボードを叩いて「どこかで大きな地震が起きたか…被害が少なければいいが」とツイートしていた。

 仕事場にはテレビがないので、慌てて表に飛び出し、カーナビに内臓されたテレビをつける。そこには、続けざまに襲ってくる大きな余震に混乱するスタジオの情景が映し出されていた。ヘルメットを被ったアナウンサーが、何度も襲ってくる余震に怯えながら、錯綜した情報をなんとか伝える。徐々に状況が掴めてくる。東北から関東の太平洋沿岸の広範囲な地域を巨大地震が襲い、甚大な被害が出ているという。そして、画面の隅には北海道から九州までの長大な太平洋沿岸が赤く縁取りされて点滅する日本地図と「大津波警報」の文字があった。

 さいたまでも大きな余震が続き、ギシギシと揺れる車の中で、テレビに釘付けになっていた。しばらくすると、画面はヘリからの空撮に切り替わった。

 宮城県の沖合で一直線に連なる白波が、長い海岸線に向かっていく。防災ヘリの映像は、音もなく、解説のテロップが入るわけでもなく、ただ淡々と外界を見下ろしていて、海上を飛ぶ間は、妙に長閑な景色に見えた。海上では比較できるものもないし、俯瞰した映像は立体感が少ないため、南北に何キロにも渡って連なる波の高さがつかめない。それはドキュメンタリーやCMで観たアマゾン川を逆流するポロロッカのようで、長くサーフが楽しめそうだなどと間抜けなことを考えていた。

 ところが、その白波が海岸線を越えて陸を舐め始めるとそんなイメージはたちどころに吹き飛んだ。

 「津波」というものの本当の姿を、このときどれだけの人が目撃していたのだろう。横一直線に立った白波がいとも簡単に海と陸との境界を越えて内陸へと這い上がり、黒い舌となって全てを飲み込みながら進んでいく。そのスケールは、人間の営みが哀しいほどにちっぽけな昆虫か細菌かのコロニーにしか感じられない。大規模なビニールハウスが一気に飲み込まれて姿を消し、家々もマッチ箱のように簡単に流され、米粒のような車と瓦礫がグシャグシャに入り乱れて運ばれていく。人はあまりにも小さすぎて姿が確認できない。まるで、精密に作られたジオラマが流されていくようだ。

 ハリウッド映画のSFXなら、もっとはるかにスピードと迫力がある津波を描き、人々の阿鼻叫喚も間近で描写するところだが、画面は、あくまでも淡々としている。だけど、それが現実のリアルさと非情さを怖ろしいほど伝えてくる。

 ヘリからの空撮映像は、いわば「神」の視点だ。顕微鏡で細菌のコロニーが破壊されていくのを眺めるように、たった今まで当たり前に平和に暮らしていた人たちの生活が破壊され、命を奪われていくのを見つめていることが恐ろしく不遜なことに思える。しかし、画面から目を離すことはできない。

 気がつけば、無意識のうちに手を合わせていた。自然のあまりの猛威の前に感情が吹っ飛んで、抜け殻のようになって手を合わせる以外、何をすればいいのか考えられなかった。

 そして、原発事故。福島第一原発、それに引き続き東海第二原発で放射能漏れを知らせる「10条通報」が発表され、間髪置かずに、終末的な事態に繋がる全電源喪失を意味する「15条通報」が発表された時、「ああ、これで田舎も東京も終わりだ」と、呆けたように気が抜けてしまった。

 だが、そのときはまた気を取り直して、茨城県環境放射線監視センターが設置したモニタリングポストのテレメータデータを追いながら震度6の地震の直撃を受けて被災し、情報から隔絶されたた実家の母や妹に連絡を入れて避難の準備を整えておくように伝えた。

 実家が東海村や高速増殖実験炉「常陽」を擁する大洗原子力研究所の近くにあり、子供の頃から、原発にまつわる様々な噂を聞いていた。また、チェルノブイリ事故の時には、事故後3ヶ月あまりで中国シルクロードを旅し、国境を越えて広がる汚染の状況を垣間見た。シルクロードには、桜蘭核実験場という負の遺産もあり、その被害の噂も聞いた。

 1999年のJCO事故では、バケツの中の臨界などという誰も想像もつかない事故が起こりうるということに戦慄し、犠牲者の悲惨な状態も遺族に近い人から伝え聞いて胸塞がった。

 JCO事故の時、ちょうど実家から水戸に向かっていた母は、この地方の最大幹線道路である国道51号線が封鎖され、「戦時中でも、こんな戒厳令みたいなことはなかった」と言葉を失った。もっとも、それ以上に被害の実態がわかると、それまであまり原発に関心を持っていなかった母も他の人たちも、多くが危惧を抱くようになった。

 そんなこともあって、原子力については、ずっと、強い危機感と嫌悪感を持っていた。

 福島第一発電所の一号機と三号機が吹き飛んだ瞬間も、テレビのモニター越しに観たそれは、陸へ這い上がっていく津波と同じで、真空のように淡々とした映像で、だからこそ心底不気味だった。このときも、ぼくは自分では意識しないまま手を合わせていた。

 小松左京の作品に『涅槃放送』という短編がある。第三次世界大戦が勃発し、各国は地球が壊滅することがわかっていながら、保有する核ミサイルをすべて敵に向かって発射する。お茶の間のテレビでは、その一部始終が生中継されていて、どこにでもある家庭の一つで、祖父と孫が食い入るように画面を見ている。

 そして、画面に映し出された大陸間弾道弾の飛翔風景に向かって祖父がしみじみと言う。

「これまでの戦争や災害はすべて、なぜそんなことが起こったか、いつ、どうやって死なねばならんか、本当のことは何もわからんままに、死んでいかなきゃならんかった。ところが、今はテレビのおかげで、なぜこんなことになったか、どんな形で、いつどんな風に死ぬか、実にわかりやすく解説してくれる。われわれ人間の組織にどんな欠陥があったかも、反省させ、考え直させてくれる。――おかげでわしたちも、なぜ死なにゃならんか、という理由を、はっきり納得し、満足して死ねる。テレビのおかげで安心して従容として死ねるわけじゃ……ありがたや、ありがたや」。

 涅槃放送の祖父が、拝みながらテレビ画面を見つめているシーンが印象的だった。今まで、この作品は文明社会を揶揄したアイロニーだと単純に考えていた。だが、自分が原発の爆発したシーンを見て思わず手を合わせ、さらにモニタリングポストの数値が急激に上昇していくのをネットで確認して手を合わせていることに気づいたとき、小松左京は涅槃放送の祖父の祈りの仕草に、単なるアイロニーだけでなく、もっと根源的な意味合いを込めていたのではないかと感じた。

 3.11から二ヶ月、地震と津波の傷跡はまだまだ生々しいが、被災地では復活に向けての胎動がはじまっている。原発のほうは……まだまだ解決というには程遠く、一歩間違えば日本のほとんどを人間の住めない土地にし、北半球全体に深刻な汚染を残す危機の上を綱渡りしている。

 今、いったい自分には何が出来るのか……この二ヶ月間ずっとそんなことを考えていた。

 そして、ようやく、自分にできることは、地球上で人類が意識を持ったときからずっと続けてきた「無垢の祈り」というべきものを復活させることではないかと思い至った。

 自分が津波や原発災害を目の当たりにして祈ったその行動は、祈りの具体的な対象があったわけではなく、具体的な願望を持って祈ったわけでもない。それはただ自然の偉大さにひれ伏し、人間の奢りを悔やむものだった。

 ずっとレイラインハンティングという活動を続け、様々な聖地を巡ってきた。その中で、無心になって祈る人の姿に出くわし、さらにそんな痕跡が残る祈りの場を見てきた。

 レイラインハンティングというフィールドワークを通して感じたのは、ただ自然と向かい合い、これを畏れ、敬い、そして祈りによって同化すること、それが祈りの本質であるということだった。それが、自分が無心になって祈るという行動をとったことで、ようやくわかった。

 分厚く深い熊野の山の迫力に、それに負けじと図太く荒々しい祝詞を唱える禰宜がいた。反対に、円やかな大和の風景に調和するように暖かく流れる祝詞があった。

 また、神話の大元の神が眠るといわれる大岩の前に傅き、ただ一生懸命に祈る老人の姿があった。真っ白い丸石が敷き詰められた拝所に何も敷かず正座した彼の靴下からは右の親指が顔を出していたが、自分のことなど無関心な彼の姿は夏の日差しを受けて輝く巨大な白いご神体石の中に溶けいってしまいそうだった。

 沖縄の御嶽では、ユタの二人連れにあった。彼女たちは俗世の穢れや業を一身に受け、それを天に近い沖縄本島突端の山上の御嶽で、天に送り返すのだという。

 祈りの原点に帰ること。それは人が自然の一部であることを自覚し、自然と共生する意識を持つ第一歩だと思う。自然を人間の都合のいいように作り替え、自然から多くのモノを奪い、そして穢してきた人類が、これから生き残る道は、原初の祈りを思い出して、謙虚に生きることではないだろうか。そのために参考となるような、ぼくが出会った無垢の祈りの風景をこれから記していこうと思う。

(2011年5月記)

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