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◆昔の記事から◆【賀曽利隆の「峠越え」最終回記念】

 鉄人・曽利の「峠越え」が、先月号で最終回を迎えた。23年、188回に渡る連載の間に越えた峠は1231。それだけでも途方もない記録なのに、並行して世界ツーリングを何度もこなしているのだから、賀曽利さんは、まさに「鉄人」である。
 長い歴史を誇り、多くのファンを持つ「峠越え」が終わってしまうのは、熱心な一ファンとして、とても残念だ。そんな思いも込めて、今回は、賀曽利さんと一緒にツーリングして、夜はたき火を囲んで、「峠越え」にまつわる思い出などを語ってもらうことにした。

●俺のバイクライフは"そこ”から始まった

 俺がオートバイに乗り始めたのは、賀曽利さんが「峠越え」を始めて二年目にあたる22年前だ。最初に愛車としたのは、スズキのハスラー125で、これは、賀曽利さんの記事に影響された選択だった。
 当時、俺は、ひとりで自然の中に入っていける道具として、オートバイを考えていた。そこで、どんなマシンがいいかと、O誌を買って研究することにした。その中で、賀曽利さんの存在を知り、彼が過酷な世界ツーリングと「峠越え」の相棒として、ハスラー250を使っているのを見て、「俺を山に運んでくれるのは、こいつしかない!」と、ハスラーに決めたのだ。
 まだ免許とりたての俺は、250を操る自信はなく125に落ち着いたのだが・・・。 余談だが、当時のO誌は、新人編集者の風間深志さんが、「オフロード天国」をスタートさせ、林道ツーリングの世界を開拓しはじめていた時期でもあった。
 俺のまわりの連中はサンパチ(スズキGT380) とかヨンフォア (ホンダCB4OOFour)で夜の街道を突っ走るのが普通で、ひとり孤独に山を走る俺は、変人扱いされた。だけど、独自の道を行く賀曽利さんの生き方をO誌でみて、俺もこれでいいんだと、そんな外野の声はまったく気にならなかった。なにしろ、たったひとり、オートバイでサハラ砂漠を越えたり、アジアンハイウェイを走破したり、縦横無尽に世界中を駆け巡っていたライダーは、賀曽利さん以外にはいなかった。そして、今度は日本に目を向けて、「峠越え」というユニークな企画に邁進するその姿は、チャレンジャーとして光り輝いていたのだ(もちろん、今でも輝いているゾ)。
 俺は、賀曽利さんの後を追いかけるつもりはなかったが、O誌の記事ににじみ出る孤高のライダーとしてのその姿勢には心底共感して、賀曽利さんを手本にしてオートバイとつき合ってきた。それが、いつのまにか、賀曽利さんや風間さんと同じ世界で仕事するようになり、ときには一緒に取材するような立場になっているのだから、人生、何が起きるかわからない。

●目標を見失った自分

 賀曽利さんが「峠越え」の連載を始めたのは、3度に渡る世界ツーリングを終えた27歳のときだった。奢りという言葉からはもっとも遠い鉄人・賀曽利も、このときはまだ若く、世界中を隈なくまわったという自負から、「もう自分にとって未知の世界なんてありゃしない」と思い上がっていたのだという。同時に、長年の夢を果たして、次の目標を見失ってもいた。そんなとき、世界ツーリングの記事を掲載したO誌との打ち合わせの中で、「峠越え」の案が浮上した。
 自信に満ち溢れた若い鉄人・賀曽利は、「狭い日本の峠なんて、一年もあれば全部走破してしまうさ」と、たかをくくった。だが、いざこの企画がスタートしてみると、予想もしない展開となった。
「海外というのは、案外平らなんですよ。海外をオートバイで走ると、途方もない平原を延々アクセル開けっ放しだったり、山道でも、延々登りが続いたかと思うと、今度は延々下りが続いたりする。単調なんですね。それが、日本は、山国だから、曲がりくねってアップダウンが多い。ひとつの峠を越えても、また次の峠がある。しかも、峠を境に、空気が変わったり、自然がガラッと変わる。それに、峠を挟んで、こっちの里と向こうの里では、習俗や文化がまったく違ったりするんですよね。それが、新鮮で、たちまち虜になりました」
 若き鉄人・賀曽利は、「峠越え」をはじめたことで、自分の故郷である日本の魅力にあらためて目覚めたのだという。そして、はじめは、たかをくくって始めたこの企画に次第にのめりこんでいった。
 そういえば、俺にも同じような経験がある。しばらく海外の殺風景な自然の中に身を置いて日本に戻ってきて、自然が瑞々し青さに溢れていることに感動し、素直に、この繊細な自然がかけがえのないものだと思えた。20代の大半を海外の過酷な自然の中で過ごした賀曽利さんなら、その感動もひとしおだったろう。
「峠越え」をきっかけに、30代の資曽利さんは、主に日本に目を向けることになった。俺が、誌を初めて手に取り、質曽利さんの存在を知ったのは、ちょうどその頃だったわけだ。

●後先考えず、とにかくはじめてみることだ。

 じつを言うと、賀曽利さんと俺の付き合いは、けっこう古い。
 オートバイライフの師ともいえるこの人に初めて会ったのは、もう15年近く前のことだ。そのとき俺は、晶文社から刊行された『オフロードライダー』という本の編集をしていて、賀曽利さんに直に話しを聞くことになったのだ。
 はじめて会った賀曽利さんは、じつに気さくで、ダイナミックでユニークな旅の話しをたくさんしてくれた。そのことで、俺はますます賀曽利さんのファンになった。
 この本では、他に、風間深志さんと先年惜しくも逝去された西野 始さんを紹介した。
 三者三様の孤高のツーリングライダーの足跡と生ざまは、本を取りまとめていた俺自身にとって、たいへん勉強になった。
 この本を編んだ頃は、ちょうど最初のオートバイブームの頃で、巷にはカタログスタイルのバイク雑誌が溢れ、ニューモデルやスタイルばかりに注目が集まっていた。
 オートバイに乗ることだけで不良のレッテルを貼られ、後ろ指さされながらも突っ張って乗っていた俺としては、急にぬるま湯に浸かったみたいで気分が悪かった。そんな中、3人の骨のある孤高のライダーの生きざまは、俺自身の生き方の指針となった。「世間がどうあろうと、自分のいいと思うことを貫き通していけばいい。目標を立てて邁進すれば、自然と結果はついてくる。」はっきり言葉に出すのではなく、彼らは、自らの生きざまで、そう語っていたのだ。
 実際、その後も、賀曽利さんはご存知の通りの活躍だし、風間さんは南北両極をオートバイで制覇するという快挙を成し遂げ、西野さんはビジネスの世界に転じて、アジア諸国に薬局チェーンを展開する実業家として成功した(西野さんは、その後、惜しくも飛行機事故で亡くなった)。 そして、3人とも、そんな結果を自負することもなく、常に先を見続けている。
 賀曽利さんとは、その後、いくども一緒に取材させてもらったり、話しをさせてもらうようになった。
 賀曽利さんからは、ほんとにいろんなことを教わったが、いちばん印象的なのは、「ものことは、後先のことなんて考えずに、とにかくやってみることが大切だ」ということだ。
「峠越えをはじめた当初は、ほんとに何も考えてなかったんですよ。それが、回を重ねていくうちに、峠というものの持つ意味もわかってくるわけです」
 かつて、峠は、里人にとっては、異界へとつながる恐ろしい場所で、そこを越えて向こう側へ行くことは大冒険だった。だが、山伏や猟師、山人たちは、尾根筋を生活の道としていて、峠はただの通過点、鞍部にしかすぎない。峠で里人と山人が出合えば、里人にとって山人はまさに超人的な異人に見える。そこから、伝説が生まれる。ときには、里のものと山のものとを交換するために、峠が使われ、それが次第に市に発展することもあった。
「峠ってね、ほんとに深いものがあるんですよ。そういったことを知ると、さて、次の峠はどんなところで、どんな歴史があるんだろうと、興味がどんどん湧いてくるんですね」
 賀曽利さんは、はじめから、そういう峠にまつわる文化的側面を意識していたわけではない。はじめは、やみくもに数をこなしていて、次第に、体で雰囲気を感じるようになり、それが興味をわきおこし、歴史をひも解くようになる。そして、歴史や文化についての理解が深まると、さらに興味の幅は広がり、どんどん知識の奥行きが増していく。
「峠越えをはじめたおかげでね、旅がずっと面白くなったんですよ。どんな動機でもいいんですよ。とにかく、やってみること。 やってみないことには、なにも始まらないんだから」
 ほんとにそうだ、俺もつくづくそう思う。そして、あえて、ひと言補足させてもらうとすれば、他人は当てにせず、なんでもひとりでやってみろということだ。俺の好きな登山家で、やはり鉄人と形容されるラインホルト・メスナーという人がいる。彼は、こう言っている。
「大パーティで、細かい分業をこなしながら、スケジュール通りにエベレストに登るよりも、少年が遠くに見える山にあこがれ、ひとりでそれに立ち向かうほうが、より価値のある行為だと思う」
 少し横道に逸れたが、賀曽利さんは、「峠越え」を長年続けるうちに、最近、その峠が廃れつつあることを痛切に感じているという。
 どこも、つづら折りの道で峠に登るのではなく、ショートカットでトンネルを貫くカタチになり、旧道の峠道が廃道になっているのだという。
 でも、そんなことですぐに悲観する鉄人・賀曽利ではない。
「でもね、トンネルでも結局同じなんですよ。トンネルの向こうとこっちでは、文化も空気も違う。その味わいもまたいいんです」
 トンネルはトンネルなりに楽しみ、だけど、峠越えもしぶとく続けていくとのこと。
「2000峠は、なんとしても達成しますよ。1000峠まで2年で、これから20年として、70歳。杖をついて、遣ってだって登りますからね!」
 70歳では、鉄人・賀曽利は、まだまだ杖なんかついていないだろう。
賀曽利さんに負けずに、俺達も自分なりの「峠越え」をみつけなきゃな!

(月刊オートバイ 1998年6月号)

追記
その後、賀曽利さんは2000峠を達成し、76歳の今もまったく変わらず元気にスズキのオートバイで駆け抜けている。

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