桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その5

35 桶狭間の戦いを検討するには、古態であることを評価して『天理本』、それを補完する『甫庵信長記』、今川方から見た唯一の記録である『三河物語』を重視すべき。合戦後50~60年という比較的近い時期に成立した三冊を中心に見ていくことで、実像に迫れるのではないか。#信長 #信長公記 #桶狭間

36 では次に桶狭間の戦いが行われた場所の地形はどうであったか。戦いが現在の名古屋市緑区桶狭間で行われたと仮定し、その界隈の地形を考えてみると、まず海岸線の問題がある。桶狭間の真西6キロが当時のあゆち潟(伊勢湾)の海岸だ。しかし海岸線は現在と異なる。#信長 #信長公記 #桶狭間

37 海退や埋め立てで現代の海岸線ができているが、当時、伊勢湾は現在より内陸へ大きく入り込んできていた。桶狭間の北北西3.7キロの鳴海城の南側と西側は海で、南南西3.3キロの大高城も鳴海城の下から海岸が続き北西側は海に面していた。 #信長 #信長公記 #桶狭間

38 つまり大高城は伊勢湾に直接出られる位置にあった。伊勢湾に出られるということは伊勢方面へ船で直接向かえるわけで、そこから上陸して鈴鹿山脈を越えると、尾張を通過せずに直接、京へ入ることも可能となる。義元にとって重要な場所だとわかる。#信長 #信長公記 #桶狭間

39 鳴海城の下も海だが、こちらは当時干潟になっていて、潮の満ち干の影響がかなりあったと考えられる。現在は天白川が流れているが、その両岸は当時まだ海であり、特に上流部は潮が引けば歩けたと考えられるほど水深は浅かった。#信長 #信長公記 #桶狭間

40 鳴海から海を隔てて西には笠寺大地があるが、この時代は海に突き出た半島で、さらに以前は「松巨島(まつこじま)」という島だった。さらにその北西に遠浅の海を隔てて熱田がある。潮が引けばこれらの間は徒歩でも行けた。#信長 #信長公記 #桶狭間

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