水野誠志朗

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騒動渦中の山下達郎に思う

1970年代後半、私もバンドをやっていましたが、この頃、いわゆる歌謡曲(東京の芸能界)に距離を置く音楽活動として、ロック・フォーク・ニューミュージックといったジャンル分けがよくされていました。そこからたくさんの異端の才能が生まれていました。 それら異端の人たちもレコードデビューすると芸能界の一員となり、その業界システムの一翼を担うことになりました。1970年代の終わり頃にはそれらの音楽が若者音楽として歌謡曲を凌駕するようになりましたが、芸能界(音楽業界システム)はあまり変わ

    • 噂の真相1988年に話題のジャニーさんが。統一教会同様に、日本の闇は30年以上放置されてきてますねえ

      4月12日、元ジャニーズJr.のカウアン・オカモト氏(26)が、日本外国特派員協会で記者会見を行い、改めてジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川氏による性加害について告発した。 というのが今年ですが、もう30年以上前にこの話はごく一部で報道されていたんですけど。30年も被害者が増え続けていたという点では、統一教会同様。また、皆が知っていても知らぬふりで過ごしてきたという点でも同様かと。これが日本社会だということでw 当時の記事をテキスト起こしして掲載してみます。 Pho

      • 30年前の『噂の真相』スキャン第4弾は統一教会に戻ります

        30年前の『噂の真相』スキャン第4弾は統一教会に戻りまして、大勲位とミッチーとの関係、右翼・ヤクザとの関係などのほか、滅私奉公の信者のお仕事についても。30年変わらないのでした。

        • 30年前の『噂の真相』スキャン第三弾。創価学会のマスコミ対策。

          統一教会のこというなら公明党はどうなんだ、というご意見が多いので、これまでこんなに努力してらっしゃったんですよw、ということが28年も前に暴露されていますw なので今は政権与党なわけでw そういや池田喚問は結局回避されたのですよね。

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        • 新説! 桶狭間の戦い 第一号
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        記事

          30年前の「噂の真相」統一教会関連記事スキャン、第二弾は結構衝撃的な名前が出てきました。慶応大学の小林節氏です。

           92年9月号ではより仔細な内容となっておりまして、今や日刊ゲンダイで憲法論を説く慶応大学の小林節氏は、文鮮明の子分の福田信之のさらに子分として登場しております。この頃は小沢一郎も自民党ですから時代は変わるものw  それにしても、統一教会と自民党の蜜月の方は全く変わらずここに。 国際合同結婚式で集められる「白い封筒」 には、これら霊感商法やニセ募金等、詐欺的 もしくは違法な方法で、若い信者たちが寝る間も惜しんで集金させられた100万円~1 40万円の金が入っている。 トータ

          30年前の「噂の真相」統一教会関連記事スキャン、第二弾は結構衝撃的な名前が出てきました。慶応大学の小林節氏です。

          統一教会と自民党のお話、今から30年前の月刊誌『噂の真相』をスキャンしました

          統一教会と自民党のお話、今から30年前の噂の真相1992年6月号をスキャンしました。 この時代から統一教会と自民党が蜜月だったことがよくわかります(まあ、噂真記事を信じればですがw)。 記事を読むと自民党左派はこれだからいかんと右巻きの人は思うでしょうけど、その統一教会とずっとつながっていたと思われるのが、このあと93年に国会議員となる安倍氏でもあるわけで、世の中は本当によくわかりません。 結果、30年後にこのようなことに至ったのを、右巻きの人も左巻きの人もよくお考えいただ

          統一教会と自民党のお話、今から30年前の月刊誌『噂の真相』をスキャンしました

          犯人は今の時代の申し子に違いないとやっぱり思う

          ▲安倍氏による閉塞感のある世の中作り(という見方として)の犠牲者、という見立ては外れ、結局、統一教会に対する恨みによる犯行というあたりに落ち着くことにされそうな世の中だが、そういうカルト宗教を、取り締まれなかった政治の責任はあるのではないか。 ▲取り締まれなかったというより、身内なんだから取り締まるわけない、ということになるのだが、そのあたりの関係性を知っている人があまりに少ないのにはちょっと驚いた。統一教会と自民党、岸信介の関係とか、もちろん安倍氏との関係とか、今回、びっ

          犯人は今の時代の申し子に違いないとやっぱり思う

          昨日のテロに関して、少し思うところを

          ▲発生から3時間位過ぎて、犯人の映像が見えてきたときに感じたのは、これは貧乏人の反乱じゃないかということ。24時間以上過ぎた今も犯人の動機ははっきりしないが、結局は人生に投げやりになった41歳貧乏男の自殺行為、のように思う。 ▲派遣の41歳独身、現在無職。高校出てしばらくしてから自衛隊に入ったくらいだから、その頃からそう恵まれていたわけではあるまい。それから20年近く、おそらく好い目を見ることもなく一人生きてきたのだろう。そして40を過ぎて先行きに絶望した。 ▲と今の時点

          昨日のテロに関して、少し思うところを

          「新解釈・桶狭間の戦い」をもとに今川義元、織田信長、それぞれの進軍ルートのマンツーマン・ガイドツアーを始めようと思います

          「新解釈・桶狭間の戦い」として、今川義元は戦いの日、大高城を早朝に出て、漆山、高根山、桶狭間山と信長に備えながら、三河に向け撤退していたところを信長に襲われたという説(かぎや散人説)を雑誌『歴史群像』で発表して2年、少しずつは知られるようになってきました。とはいえ、なかなか理解されるのは難しい。 桶狭間の戦いをもっと多くの人に知ってもらうためには広域に渡る現地を回ってもらうのが実は一番よい。あたりの多くが住宅地になってしまっていますが、まだまだ痕跡は残っていますので。とはい

          「新解釈・桶狭間の戦い」をもとに今川義元、織田信長、それぞれの進軍ルートのマンツーマン・ガイドツアーを始めようと思います

          日本のクルマは軽でいい。タフト買いました。

          ダイハツタフト、このような仕様にしてみました。ターボの場合、黒メッキのアルミが付きますが、それをレスオプションにして鉄チン白ホイールに変え、ミラーとドアの取っ手を白くすると、5000円のみアップ。リアにスペーサー噛ませてツライチにしたいところですね。ナンバープレートもまだ白で取れるみたいなのでそれもついでに。 タフトは自動ブレーキ、ACC、電動パーキングブレーキ、そしてオプションの自動パーキング(これはつけない)までいわゆるクルマのハイテクが全部入りの軽自動車です。「じっち

          日本のクルマは軽でいい。タフト買いました。

          10年の時が経っても、新しく登場した説は「新解釈・桶狭間の戦い」だけ

          10年前に出た雑誌『歴史街道』6月号が「桶狭間の謎」として特集を組んでいました。当時ちょうど450年ということで、50ページあまりの大特集。巻頭では「窪地の義元を奇襲攻撃はよく知られている。しかし信長公記に従うとそれはおおきく覆える」として知られ始めた正面攻撃説をベースに真相を探るとします。 掲載された戦場のイラスト俯瞰図は、海岸線と道がきちんと書かれた画期的なものでしたが、これは桶狭間古戦場保存会が協力したことでできたもののようです。さらに現在の地図に当時の海岸線など

          10年の時が経っても、新しく登場した説は「新解釈・桶狭間の戦い」だけ

          「新解釈・桶狭間の戦い」を桶狭間古戦場公園にある地図でご説明

          「麒麟がくる」では6月の7日がどうやら桶狭間の戦いの回のようですが、今の暦で6月12日(当時の暦では5月19日)が合戦の日となりますので、いいタイミングかと。桶狭間古戦場保存会が作成され、古戦場公園に掲げられている案内図に、恐縮ですが少し手を入れて「新解釈・桶狭間の戦い」を解説させていただきます。義元のスタンスで書いてみます。 今川義元は5月18日に知立から鎌倉街道ではなく、当時はまだ東海道とは呼ばれていなかった海岸沿いの道を通って沓掛村のはずれで東浦街道へ入りました。さら

          「新解釈・桶狭間の戦い」を桶狭間古戦場公園にある地図でご説明

          「豪雨を幸いに義元本陣に近づいた信長。一気に最後までお読み下さい」  桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その23

          179 両軍が対峙すると突然の暴風雨に見舞われる。正面から吹き付ける雹(ひょう)まじりの豪雨で今川勢が面をあげられないことを幸いに、信長は風に背中を押されるまま軍勢を長坂道ではなく閑道、すなわち有松地峡の原初東海道へ導いた。#信長 #信長公記 #桶狭間 180 前述のようにかろうじて人が通れる閑道があり、風雨に背中を押されながら信長勢はそこを移動した。長坂道を進んで今川殿軍を攻撃することなく、迂回してさらに東にいるはずの義元本体へと向かったのだ。暴風雨を利用して動いたことこ

          「豪雨を幸いに義元本陣に近づいた信長。一気に最後までお読み下さい」  桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その23

          「山際まで敵に遭遇することなく進めた信長勢。正面攻撃説ではこれを説明できない」 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その22

          172 信長は中島砦から出撃すると、手越川沿いの北側にある鳴海~桶狭間道(旧東海道筋)を進撃して、高根山などの「山際」となる場所、すなわち手手越川を渡る鎌研橋あたりで、撤収を終え高根山の峠に陣どった今川の殿軍と対峙した。#信長 #信長公記 #桶狭間 173 今川の殿軍は、鎌研橋から旧東海道筋を離れて南東へ伸びる鳴海~桶狭間道(ここからは長坂道と呼ばれる)を遮断して、信長に備えていた。当時中島砦を出て南東の桶狭間村に向かう道はそれしかない。信長は姿を隠すため山間部へ分け入った

          「山際まで敵に遭遇することなく進めた信長勢。正面攻撃説ではこれを説明できない」 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その22

          天理本は「かゝらハ引、ひかは引付」陽明本は「懸らばひけ、しりぞかば引付くべし」。 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その21

          166 この信長の訓示は、内容が正しいということのほかにもう一つこれまで大きな誤解があった。それが原文の「かゝらハ引、ひかは引付」という部分だ。これは信長公記『天理本』の記載だが、これまでよく読まれてきた『陽明本』では「懸らハひけ、しりそかは引付」となっている。#信長 #信長公記 #桶狭間 167 『天理本』では「かからば引」とあって『陽明本』のように「け」とおくっていない。つまり「引」は「退け」ではなく「引く」と読むのが正しいはずだ。そのあとは「ひいたら(退いたら)ひきつ

          天理本は「かゝらハ引、ひかは引付」陽明本は「懸らばひけ、しりぞかば引付くべし」。 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その21

          「前線に着いた信長は、撤退する今川軍を見て正しく兵に訓示した」 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その20

          156 丹下砦を目指して信長は熱田を出るのだが、この時の伊勢湾の満潮時刻は午前八時となり、潮が引くと通れる鎌倉街道の下の道はその頃海没していて通れず、遠回りになる上の道を急ぐことになった。上の道も諸説あるが現在の元八事あたりで天白川を渡ったのではないか。#信長 #信長公記 #桶狭間 157 定説では今川方が信長の参陣を遅らせるために潮の満干を考慮したとされるが、それは違う。「首巻」には「東に見える南浜通の道は距離が近いのだが、ちょうど満潮で馬の通行もできなくなっていた。そこ

          「前線に着いた信長は、撤退する今川軍を見て正しく兵に訓示した」 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その20