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「新解釈・桶狭間の戦い」をもとに今川義元、織田信長、それぞれの進軍ルートのマンツーマン・ガイドツアーを始めようと思います
「新解釈・桶狭間の戦い」として、今川義元は戦いの日、大高城を早朝に出て、漆山、高根山、桶狭間山と信長に備えながら、三河に向け撤退していたところを信長に襲われたという説(かぎや散人説)を雑誌『歴史群像』で発表して2年、少しずつは知られるようになってきました。とはいえ、なかなか理解されるのは難しい。 桶狭間の戦いをもっと多くの人に知ってもらうためには広域に渡る現地を回ってもらうのが実は一番よい。あたりの多くが住宅地になってしまっていますが、まだまだ痕跡は残っていますので。とはい
「豪雨を幸いに義元本陣に近づいた信長。一気に最後までお読み下さい」 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その23
179 両軍が対峙すると突然の暴風雨に見舞われる。正面から吹き付ける雹(ひょう)まじりの豪雨で今川勢が面をあげられないことを幸いに、信長は風に背中を押されるまま軍勢を長坂道ではなく閑道、すなわち有松地峡の原初東海道へ導いた。#信長 #信長公記 #桶狭間 180 前述のようにかろうじて人が通れる閑道があり、風雨に背中を押されながら信長勢はそこを移動した。長坂道を進んで今川殿軍を攻撃することなく、迂回してさらに東にいるはずの義元本体へと向かったのだ。暴風雨を利用して動いたことこ
「山際まで敵に遭遇することなく進めた信長勢。正面攻撃説ではこれを説明できない」 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その22
172 信長は中島砦から出撃すると、手越川沿いの北側にある鳴海~桶狭間道(旧東海道筋)を進撃して、高根山などの「山際」となる場所、すなわち手手越川を渡る鎌研橋あたりで、撤収を終え高根山の峠に陣どった今川の殿軍と対峙した。#信長 #信長公記 #桶狭間 173 今川の殿軍は、鎌研橋から旧東海道筋を離れて南東へ伸びる鳴海~桶狭間道(ここからは長坂道と呼ばれる)を遮断して、信長に備えていた。当時中島砦を出て南東の桶狭間村に向かう道はそれしかない。信長は姿を隠すため山間部へ分け入った
天理本は「かゝらハ引、ひかは引付」陽明本は「懸らばひけ、しりぞかば引付くべし」。 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その21
166 この信長の訓示は、内容が正しいということのほかにもう一つこれまで大きな誤解があった。それが原文の「かゝらハ引、ひかは引付」という部分だ。これは信長公記『天理本』の記載だが、これまでよく読まれてきた『陽明本』では「懸らハひけ、しりそかは引付」となっている。#信長 #信長公記 #桶狭間 167 『天理本』では「かからば引」とあって『陽明本』のように「け」とおくっていない。つまり「引」は「退け」ではなく「引く」と読むのが正しいはずだ。そのあとは「ひいたら(退いたら)ひきつ
「前線に着いた信長は、撤退する今川軍を見て正しく兵に訓示した」 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その20
156 丹下砦を目指して信長は熱田を出るのだが、この時の伊勢湾の満潮時刻は午前八時となり、潮が引くと通れる鎌倉街道の下の道はその頃海没していて通れず、遠回りになる上の道を急ぐことになった。上の道も諸説あるが現在の元八事あたりで天白川を渡ったのではないか。#信長 #信長公記 #桶狭間 157 定説では今川方が信長の参陣を遅らせるために潮の満干を考慮したとされるが、それは違う。「首巻」には「東に見える南浜通の道は距離が近いのだが、ちょうど満潮で馬の通行もできなくなっていた。そこ