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夏の風歌うと青の月が照る

夏の風歌うと青の月が照る
                          
木下 雄飛

ある一人の男性が目を覚ました。周りには誰もいない。彼一人だけだ。
ここは、日本の片田舎にある冷凍食品を生産する工場の中だ。
その工場は、閑散としていて、まったく人の気配がない。
彼は、暗闇の中で、この場所について、記憶を手繰り寄せてみるが、記憶の手がかりが見つからなかった。誰かがいる痕跡が無く、夥しいほどの異臭がそこら中にしていて、胃の底から込み上げてくる強い吐き気がする。
ここは、風が吹き抜けて行く洞窟か満天の星空を眺めるプラネタリウムの中のように声が反響して、壁へと吸い込まれていき、彼の言葉が外に届くことはなかった。
誰かがここに来るまで、一人きりでジッと待つべきだろうか、とも思ったが、この工場の中は、北極の中心に立っているのと同じくらい寒く、人が来るよりも、自分が凍え死んでしまう方が先だと、ガタガタ震えて、寒さと恐怖心と格闘しながら、彼は助けを待ち続けていた。
彼は、手探りであたりを動きまわってみよう、と思い立ち、暗がりの中で、近くの機械につかまって、立ち上がり、工場の中を捜索し始めた。
目を覚ましてから、およそ五分が経ち、暗闇に慣れ、工場の中の様子がわかるようになってきたので、自分の周囲に手を伸ばし、半径五メートルにあるものを、手当たり次第に触れてみた。彼の周りには、重厚そうな機械が数台置いてあり、手触りと頼りない視界だけでは、全ての感触を正確に確かめることはできないものの、他にあるものといえば、その機械の隣の棚くらいで、脱出の役に立つようなものは見当たらなかった。
彼は、自分の一番近くにある機械をさらに注意深く触れてみた。手触りから推量すると、物体と物体を組み合わせて接合するための機械のように思えた。
頼ることができるのは、自分の五感と経験だけだったので、なかなか判別が難しかったが、周囲に漂う生魚のようなひどい匂いと機械にこびりついた食べ物の感触から、家庭用の食品を作り出す機械だろう、と彼は推測をした。
そして、さらに慎重に手を滑らせていくと、ベルトコンベヤーのざらざらとした感触がしたので、ここは食品工場の生産レーンの一部なのだろう、と彼は感じた。
この機械が動き出してしまったとしたら、自分はマクドナルドのパティのように、いとも簡単につぶされてしまって、自分の身体は粉砕されてしまうかもしれないと感じておもむろにシャッターの方まで走り、
「おい、出してくれ、誰か、頼むここから出してくれ。」
と、大声で怒鳴って助けを呼んだ。だが、十分経って、凍えるような寒さと殴り続けた手の痛みで、手の甲が血まみれになっても、誰も助けには来なかった。
夏だったこともあって彼は、半袖半ズボンのままで、気がついてみれば、いつのまにかこの場所に閉じ込められてしまったので、彼の唇と耳や鼻などの器官は、すでに凍り始めていた。
早くここから出ないと本当に死んでしまう、という生を求めるが故に発生する恐怖感が彼の心をジワジワと支配し始めた。
まず彼は、ここから出るために灯りとなるものを探そう、と行動した。三十秒ほど目を凝らして、彼は工場の中を歩き回った。すると、シャッターの横には、懐中電灯が一つ置いてあった。彼は懐中電灯を備え付けの台から外して電気が点くか確かめてみた。幸いなことに、その懐中電灯は、まだ電池が残っているようだった。懐中電灯を点けて、そこに場所に貼ってあった白っぽいB5ほどのサイズの用紙を確認すると、今年の六月に点検したばかりのようだった。誰かがここに来る可能性はある。まだ私には自分の身を生かすための時間が残されているようだ、と彼は束の間の安堵をした。
そして、彼は、懐中電灯の明かりをつけて、外を通りかかった誰かが人の存在を認識することができるように、その懐中電灯の置いてある場所に備え付けてあった非常ベルを鳴らした。けたたましい空襲警報を予感させるサイレン音が辺りに響き、彼自身も音のうるささに鼓膜が破れてしまうのではないか、とも思ったが、生きるためには背に腹は変えられないと思い、そのままサイレンを鳴らし続けた。
サイレンが鳴る暗闇の工場の中で、彼は閉じ込められてからずっとなにも食べていなかったことに気がつき、耐えられないほどの空腹感のため倒れてしまいそうだったので、次に食べ物を探そうと思い立ち、懐中電灯で工場の中を歩き始めた。明かりを点けて工場の中を歩き回ってみると、小麦粉のような粉があたりに撒き散らされていることが確認できた。そういえば、彼の母は小麦アレルギーを持っていることを教えてくれたのを思い出した。今、彼が咳き込んだり、首筋を掻きむしったりしていないことを考えると、自分には小麦アレルギーが遺伝していないのだとわかって、余計にこの工場の身に堪える寒さだけが強く意識されるようになった。工場を一周しきってしまうかと彼が思った頃、彼の眼前に非常用の食料庫があることが発見できた。
だが、扉が閉まっていて、彼の力だけでは、頑丈な錆びた鉛の扉を開けることはできない。どうにかこの扉を開けて食料を確保したい、と強く思って、彼は工場の一番小さな機械を足で蹴り飛ばして、破壊しようとした。その機械には、重油が溜まっていたので、蹴り飛ばした衝撃で、周辺に大量の油が撒き散らされて、ただでさえ生臭さや生き物が死んだような酷い匂いがするのに、余計に背筋が凍りつくような匂いがして、彼は思い切りなにも入っていない空の胃液を吐き出した。
機械は、三十回ほどの脚での打撃で、かろうじて壊れて、一本の一メートルほどの鋭利な鉄の棒が手に入った。彼はその棒を振り上げて、食料庫の窓ガラスを割った。すると、食糧庫の中から五十匹を超えるほどの真っ黒いコウモリが彼の頭上を掠めるように飛び出てきた。サイレン音とコウモリの鳴き声がけたたましく辺りに響いて、さながら地獄絵図のような音響が工場全体を覆いつくした。彼は、その激しい音の連鎖が生み出す強烈な嵐に耐えられなくなって、涙を出しながら天井を仰ぎ見るように大声で発狂した。 
ガラス片をいくつも飛び散らせながら、何度も鉄の棒で食料庫の窓ガラスをたたいて、やっとのことで窓を割ることができたので、食料庫に忍び込もうと上半身から、ジッと彼を待つ四角い空洞に身体を預けた。   
ズルズルと彼の身体は、食料庫の中に吸い込まれていく。窓に残っていたガラス片のいくつかが腹部に刺さって、着ていた水色のTシャツは、血液で真っ赤に染まった。生きるために必死な彼は、そんなことは御構い無しに、彼の身体は、食料をただ食べることだけを求めて、食料庫へと入っていった。
血液が流れ出た感触で、彼の着ているサッカーのアルゼンチン代表のような色をしたそのシャツは、とてもベトベトしていて、寒ささえなかったならば、早く脱いでしまいたいほどに、気持ちの悪い感触がする。
彼が食料庫に入り終わると、右手に持っていた懐中電灯で、彼は、その中を照らした。食糧庫の中は、工場にいた時と比べても、さらに十度近く気温が低い。生きるためであれば、人間はこんなにも力強く呼吸を続けることができることを、生死の境で彼は思った。
食料庫には、大量の水と大量の米と大量の冷凍食品が凍ったまま置いてあった。
「なんだよ、これ。全部温めないと食えないじゃないか。」
彼は激怒して、袋を破って米を周囲にまき散らした。そして、米を炊かずに凍ったままで口の中へ流し込んで、むせ返ってほとんど吐き出した。だが、食べないと生きていくことが難しいことは、彼の本能が察知していたので、彼は歯で凍ったペットボトルを突き破って氷を取り出し、その氷に何の手も加えずに齧りついて、プラスチックの端と尖った氷で口の中を血だらけにした。  工場の中で目を覚まして、一時間ほどが経ち、一周回って自分を振り返ってみれば、彼は全身血まみれだった。口に血を滴らせて、シャツを真っ赤に染めた姿を誰かに見られたならば、きっとその人は彼のことをヴァンパイアの末裔だと勘違いしてしまうだろう。
唯一、この食料庫にある食材の内で、凍ったままでも食べられるものと言えば、冷凍食品の食パンだけだった。仕方がないので、食パンをムシャムシャと血に染まった口で、そのパンを真っ赤に染めながら食べていた。食品庫の寒さと凍った食品によって、彼の腹部は冷えきって、腹を壊してしまいそうだった。
何匹かのコウモリが、キイキイ鳴き声を出しながら、彼の周りを飛んでいる。彼は手を振り回して、必死に追い払った。だが、コウモリたちは、彼の放つ、捌きたての鰹かのような血の匂いに引きつけられて、まったくその場を離れようとしなかった。
彼は、1匹のコウモリを先ほどの鉄の棒で、思い切り叩き殺した。コウモリは五回ほど叩くと力尽きて、地面に落下していった。彼は、おもむろにそのコウモリを食べてみようと思い立って、コウモリを食パンに挟んで、噛り付いてみた。そのコウモリは非常に苦味が強くて、今までに食べたことのない気味の悪い骨の感触がしたが、嗚咽を漏らしながら、彼はコウモリを無我夢中に食べた。コウモリの足の骨の感触は鳥の軟骨のようで、不気味さが彼の背筋に付きまとったものの、凍った食パンや凍ったままの冷凍食品と比べれば、決して食べられないことはなかった。味わうことさえ考えなければ、このコウモリを胃の中に入れることは不可能ではない、と彼は記憶さえも朦朧とする極限状態の中で、一つの炎が彼の意識に登って行くことを強く感じ取った。
そして、彼は二匹目、三匹目と次々にコウモリを鉄の棒で捕まえて、心の中で祈りを捧げながら、命に感謝しつつ召し上がった。
コウモリは棒で叩いて殺す時に、コオロギの大群に似た断末魔のような叫び声を上げる。その音がサイレン音と連鎖して、彼の気持ちを著しく不安にさせた。
だが、私はここで絶対に生き延びなければならないのだ、という強い使命感を彼は持っていたので、必ず生きてここを脱出してみせる、と心の中で、天国の父に向けて、誓願の祈りを捧げていた。
腹部から血が滴り落ちて行き、この工場の寒さと相まって、血が少しずつ凍りついて、彼の身体を蝕んで行った。
もしかしたら、このまま自分は、たった一人きりで、この地に骨を埋めることになってしまうかもしれない、という予感が彼の脳裏を過ぎった。
そこで、彼は懐中電灯を手にして、食料庫の白を基調とした壁に、腹部の血液を絡め取った割れた窓ガラスの破片を当てて、自分の生きた痕跡を残そうと決意した。
詩こそ書かなかったものの、彼は詩人のようなメンタリティを持っていた。生きることに命を燃やし尽くせば、誰もが詩人になれると彼は信じていた。
そう意味で、彼は詩人だった。
衰弱しきった精神と肉体で、彼は一遍の詩を紡ぎ出した。
「もしあなた方が地球の片隅で、目を瞑り佇む私を見つけたならば、私の骨を四川省の大地へ投げ捨てて欲しい。私は、その広大な緑野で、鹿や小鳥たちと哀しみに染まった夏の風を感じながら、歌声を響かせたい。私は、血液も凍りつく南極のようなこの場所で、生命を絶やさないようにと、命の火を燃やし続けた。だが、もう限界だったみたいだ。神と仏はついに賽を振ったのだ。君の人生には、限りない幸福の福音と栄光の祝福がありますように。        劉獏顔(リュウ・バク・ガン)」
そして、活力を失った生命の炎を慈しむように、その男、劉獏顔は米の袋の上に頭を置き、束の間の眠りについた。彼の周りには、血の匂いを嗅ぎつけたコウモリの大群が飛び交っていた。
 一体どれほどの時間が過ぎ去っただろうか。一瞬とも無限ともいえるほどの時が経過していた。
 劉は人の気配を感じて、目を覚ました。十人ほどの男たちの声が遠くから聞こえてくる。
「おい、どうなってんだここは。ひどい匂いだし、サイレンはうるさいし、コウモリだらけだぜ。」
 微かになってゆく意識の中で、劉は神経をすり減らしながら、男たちの声に耳を澄ませていた。  
「やっと人が来てくれた、私は助かるんだ。」
 劉は喜びを心の中でかみしめて、たった一人きりで、凍った目元から薄い氷柱のような涙を流していた。
 「おい、ここはこんなに寒かったか?冷却装置がぶっ壊れちまってるんじゃないか?」
「なあ、見てみろよ。この食糧庫。窓ガラスが完全に割られちまってるぜ。こりゃあ、誰かいるな。」
 劉は男たちの乱暴な口ぶりに緊張感が少しづつ高まって、心臓の鼓動の音を立てる速度が徐々に速くなっていくのを感じていた。
「おい、誰だ、そこにいるのは?こっちへ出てきて、顔を見せな。」
 リーダー格の声の大きな男が劉のことを呼びつけた。寒さと流血で意識が遠のきつつ、最後の力を振り絞って、窓ガラスに出来た四角い空間から顔と手を出して、劉は助けを求めた。
「私です。劉獏顔と申します。助けてください。私はここにいます。この工場から出してください。」
 男たちは、いきなり食糧庫から這い出てきた青年と彼の血まみれの顔に一瞬たじろいだ。
「お前、日本人じゃないな。その言葉からすると中国人か。おい、張民相手してやれ。」
リーダー風の男は、張民(チャン・ミン)という名前の男に呼びかけて、劉の相手をするように頼んだ。 
「わかりました。君、日本語は喋られないのかい?」
 張民という名前の男は、劉に中国語で話しかけた。
「いいえ、全くできません。私が使えるのは、中国語だけです。この間まで、四川省にいました。ここは、中国ではないのですか?」
「いいえ、ここは、日本の埼玉県ですよ。君はなぜ一人きりでここにいるんだろう?」
張は、劉を怖がらせないようにと気を使って、優しい言葉で、時折ボディー・ランゲージを仲間に送りながら、劉に会話を求めた。
「わかりません。起きてみたら、この工場の端っこで眠っていました。あなたたちが私をここに閉じ込めたのではないのでしょうか?」
「いいえ、違うよ。わたし達はこのあたりに住む冷却装置の点検業者だよ。」
「なんでそんなに大人数なんですか?」
「君は面白いね。気に入った。ボスに言ってうちに連れて行くことにしよう。」
張は、真っ白の矯正済みの歯を見せながら、彼らが劉に対して全く敵対心がないことをアピールしていた。
劉も、緊張感が解けてきたのか少しずつ笑顔を見せるようになってきた。
「なあ、張民。こいつはなんて言ってるんだ?」
「この人は劉獏顔と言って、四川省に住んでいた中国人だそうです。いつのまにか、埼玉県のこの工場まで連れてこられてしまったと言っています。」
「なんだ、それは?わけわかんねえなあ。なあ、お前ら、こいつどうする?」
すると、一番長身の他の人々とは少し異なる風貌の男が口を開いた。
「俺は、うちに連れて帰ってもいいんじゃないかって思うよ。このままじゃ、こいつ死ぬだろ。」
「確かにそうだな。ジョー・ウルフ、こいつちょっと運んでくんねえか。」
すると、後ろの方にいた身体の幅がかなりある髪型はスポーツ刈りの青いコーデュロイを履いた男が、ポケットから鍵を取り出して、おもむろに扉を開いた。
劉は、もたれかかっていた扉が開くと地面に倒れこんで、ありがとうと言ったまま眠り始めた。
「ああ、力尽きちまったか。俺たちの家に行くまで命だけは残っててもらわないと、せっかくの宴が台無しになっちまうんだがな。」
「ジョー・ウルフ。運べ。」
「わかりました。」
ボスを筆頭にと九人の男たちは、食料庫に入って、劉を担いで連れて行こうとしていた。
「なあ、壁を見てみろよ。中国語の文章が書いてあるぜ。張民、訳してくれ。」
「ボス、このように書いてあります。」
張民は、日本語に翻訳した劉の詩をボスに聴かせた。
「哀しみに染まった夏の風を感じながら、歌声を響かせたい、か。夏風の歌、というのはどうだろう。この詩の名前だよ。」
ボスは、急に感じ入ったような表情になり、詩的な表現で、劉の詩を鑑賞し、名前を与えることで彼の詩に生命を吹き込んだ。
「夏風の歌。杜甫や李白を嗜む中国人にも響く名前です。白居易の詩には、『長恨歌』というものもありますし。わたしは賛成です。」
張は、あり合わせの知識で、ボスの詩評を褒めそやした。純日本人で、中国に住んだことすらなかったボスの口から、造詣の深い中国文化への理解が聞けるなんて、張は考えていなかった。秋風の歌という表現は、とても的を射ていて、奥行きのある表現だと張は思った。ジョー・ウルフは、掌についた劉の血潮をずっと眺めているだけで、この会話を聞いている雰囲気すら、張には感じられなかったが。
「ごめんな、ジョー・ウルフ。さあ、もう一度、劉をうちまで運ぶんだ。」
「わかりました。」
ジョー・ウルフは、一言の不平や不満を言わずに、血まみれの劉を他の点検業者と一緒に、十人が共同で住んでいるシェア・ハウスへと運んでいった。
ジョー・ウルフたちは、鍵のかかった工場のシャッターのボタンを暗証番号を入力すると、開閉ボタンを押してシャッターを開いた。風の音とともに、冷凍食品工場の冷気が外へと流れ込んでいく。その光景は、南極のペンギンの群れの中心に夏のつむじ風が吹き込む瞬間を見ているようで、美しさとともに儚さを感じる一種の感興があった。
深夜帯を過ぎた工場の外は、星々が煌く真っ暗闇が空を覆い尽くしていて、人の気配がなく、複雑な事情を抱えた血まみれの中国人を運び出すにはうってつけの環境だった。ボスを先頭にして、闇に紛れるように、工場から三百メートルほど離れた彼らのシェア・ハウスへと、劉を運び出した。
彼らは、まず血のついた劉の身体をよく洗った。それから、劉に温かいポタージュのスープを飲ませた。ひさびさに口にする温かい飲み物に、劉は感動して、涙袋にいっぱいの涙を溜め込んでいた。暖房の効いた部屋で、温かい食事ができるということが人間にとって、これほどの幸せをもたらすものだとは、劉は今まで考えたことがなかった。言葉こそ張民にしか通じなかったが、劉の気持ちは痛いほどボスたちの心に通じていた。部屋の隅にある丸い窓の外には、青白い満月が輝いている風景がよく見える。一人寂しく冷凍食品の工場にいた時には、この月の光さえも見ることができなかったのだと思うと、劉の感慨もひとしおだった。ああ、生きていてよかった。劉は、ポタージュのスープを飲みながら、そんなことを考えていた。天国のお父さんは、わたしの無事を喜んでいてくれるだろうか、と劉は満月を眺めながら、仲間と過ごすひとときの感傷に浸っていた。
「なあ、劉。元気になったか?と劉に伝えてくれ。」
「わかりました。なあ、劉。元気になったか?とボスが言ってるよ。」
「はい。おかげさまで、元気になりました。」
「劉は、なんて言ってる?」
「元気になりました、と言っています。」
張が間に入って、劉の述べている言葉を日本語に翻訳していた。
「そうか、よかったよ。なあ、劉。お前は、どんな仕事をしていたんだ?」
「どんな仕事していたんだ?とボスが言ってるよ。」
「わたしは、中国料理の店でウェイターをしていました。」
「劉は、なんて言ってる?」
「中国料理の店でウェイターをしていた、と言っています。」
「中国料理の店でウェイターか。日本に来る意味がわからないな。」
「警察には届けますか?」
劉は、自分が一番心配にしていたことを尋ねた。
「警察には届けますか?とボスに尋ねています。」
「いや、もうちょっと様子を見てからにしよう。なにか危険な匂いがするから。」
ボスは、腕組みをして考え始めた。劉の身体の傷つき方や血を流しても死ななかった強靭さが、普通の人間とは少し違う人種のような気がしたのだ。
「なあ、劉。記憶はあんのか?」
ボスは、劉に抱いていた疑問を吐き出し始めた。
「ボスが、劉に記憶はあるのか?と聞いているよ。」
「わたしに記憶はあります。」
「記憶はあります、と答えました。」
「なあ、張民。劉にこう言ってくれ。お前は俺らに隠していることがあるはずだ。洗いざらい全部話せ。」
「わかりました。でも、いいんですか?」
「なにがだ。」
「ボス、劉は、ここにいられなくなるかもしれない、ということになりませんか?」
「なるかもしれない。でも、俺たちの仲間が増えるかどうかよりも、真実が大切なんだ。」
「わかりました。では、劉に言ってみます。劉、お前は俺らに隠していることがあるのか。洗いざらい全部話してくれ。」
劉は、その問いかけを聞いて一瞬躊躇うようなそぶりを見せた。しかし、決心したように一言一言話し始めた。
「あなた方にわたしの素性を隠し通すことは、どうやら難しいみたいですね。わかりました。全て話しましょう。」
張は、グッと唾を飲み込んで、劉の瞳とボスの瞳の輝き具合を交互に確認しながら、劉の言葉を翻訳してボスに伝えた。
「ボス、劉は、全て話してくれるみたいです。」
「そうか、どんな答えが返ってきても俺は驚かないから真実を話してくれと劉に伝えろ。」
「わかりました。どんな答えが返ってきても俺は驚かない。真実を話してくれ。」
劉は、ため息混じりに息を飲み込むと、子供が歯医者で噛み合わせを確認するようなそぶりで、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「わたしは、中国の四川省に住んでいました。実家は四川料理のお店でした。わたしの幼い頃から、父と母の二人だけで店を切り盛りしていました。ある時、父は店を存続させるために高額の借金をしました。その借金は、高額な利子をつける闇金業者から借りたものでした。その為、連日借金取りが我が家にやってきては、父と母を脅す日々が続いていました。ある日、わたしの父は、わたしと母を残して、命を断ちました。しかし、多額の利子のついた借金は父の生命保険だけでは、支払い切ることができず、母はわたしと店を残して、北京へ出稼ぎに行きました。一人っ子政策がある中国では、わたし自身のほかに頼りにできる兄弟は一人もいませんし、親戚もみなシンガポールや韓国へ出稼ぎに行ってしまったため、わたしひとりで四川省の店を切り盛りしなければならない状況に追い込まれてしまいました。わたしは、三年ほどの間、必死で働き続けました。しかし、三年が過ぎようとしていた時、貯金が底をつきました。そんな時、友達からある噂を聞きました。その噂とは、日本のヤクザに頼めば、ある条件のもとに借金がチャラになる。というものでした。わたしは、思い切ってその番号に国際電話をかけてみました。その電話の主は、一言、借金を零にしてほしいって?なら、日本に来るんだな。とだけ言っていました。わたしは、すぐに店の残りの金で日本へ行くことを決意しました。一週間後の午後二時に羽田空港に到着しました。そこでヤクザの橋本さんと会いました。橋本さんは中国語ができたので、すぐに意気投合しました。橋本さんは、わたしを車に乗せて、遠くの方へと連れて行きました。その車の中で、わたしは橋本さんからもらったお酒を飲みました。わたしは、すぐに眠くなって、車の後部座席で眠ってしまいました。そして、気がついたら極寒の工場の人にいたのです。借金がチャラになったのかどうかは全くわかりません。ただ、わたしはあなた方に助けていただいたというだけです。」
張は、劉の述べているとりとめのない話を逐一日本語に翻訳していった。ボスは、興味深そうに彼の話を聞いていた。
「橋本、橋本。知らねえなあ。誰なんだ?橋本って言う、ヤクザは?これを訳してくれ。」
「わかりました。橋本ってヤクザは誰なんだ、とボスが言っているよ。」
「橋本さんは、わたしを助けようとしてくれただけなんだ。彼の素性は、わたしは知らない。ただ、真っ黒いスーツを着たサングラスの男だということだけは覚えている。」
張は、橋本さんのことを少しも悪く言わない劉のことを少しだけ訝って、しばらくの間、どのように翻訳しようか考えてしまった。
「おい、張。考えてないで早く翻訳しろ。俺が答えるんだから。」
張は、劉の話を一言一句違わずそのまま翻訳して、ボスに聞かせた。
「おそらく橋本が借金の形見として劉を冷凍食品の工場に閉じ込めたんだろう。劉には悪いが橋本は、黒だ。」
「訳しますか?」
「ああ、頼む。これも付け加えておいてくれ。劉は今日中に警察へ渡す。俺たちが巨大な事件に巻き込まれてしまうかもしれないからな。」
「わかりました。」
張は、周りの仲間の顔色を気にしながら、一語一語、ボスの言葉を翻訳していった。
すべてを翻訳し終わると、劉はとても寂しそうな顔を見せた。
ボスは、劉を慰めるように言った。
「お前には酷かもしれないが、劉。聞いてくれ。警察に身柄を引き渡すということは、とても怖いことのように思うかもしれないが、お前のためなんだ。このままじゃお前は、日本のヤクザに殺されてしまう可能性が高い。橋本は、組織の人間だ。簡単に翻って悪者になるだろう。劉、最後にお前の詩を聞かせてくれないか。」
張は、やっとできた年下の仲間がこんな事情で、すぐに離れ離れになってしまうことに遣る瀬無さを感じていた。ボスの言葉を翻訳している最中に、ポタージュの匂いが鼻をついて、涙で声がむせかえっている自分に気がついた。
張の翻訳を聞き終えて、劉は詩を作ることだけが、自分と安息の世界を繋ぐ架け橋になることを感じ取っていた。
「わかりました。では、詩を披露して、わたしは温かいスープの思い出を作ってくれたこの家と初めてできたわたしの兄弟たちにお別れをしたいと思います。日本の 青白い月 眺めつつ 夏の夜長の 宴なるかな 劉獏顔。」
劉は日本語で短歌が詠めたのだという、感動を伴った驚きの波がシェア・ハウス全体に響き渡った。
「ありがとう、劉。これでお別れだ。」
ジョー・ウルフが呼んだパトカーのサイレンの音がシェア・ハウスの外から聞こえてきた。劉は、警察官に連れられて、十人の男たちのもとから去っていった。このあと、劉が中国に帰還したことが一週間後の新聞の地方欄に掲載されていた。結局のところ、劉の中華料理店は、借金を返済することができずに閉店することになったそうだ。しかし、橋本は警察に逮捕され、その後の劉に危害が及ぶようなことは一切なかった。ボスと張たちは、冷凍食品の工場に閉じ込められた中国人を助けたことを地元の警察から表彰されて、少しだけ給料が上がることになった。禍福は糾える縄の如しという言葉は、今回の一連の出来事にこそ当てはまることなのだとボスは感慨深い面持ちで日記に書いていたようだ。災いと幸せは交互にやってくるからこそ人生は味わい深いものになるのだろう。今日もシェア・ハウスの住人たちは、あの青白い月を眺めているのだろうか。


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