HiGH & LOW the movie Final Mission (ザム3)感想①

※公開当時プライベッターに上げてたものです


初見の感想をずらずら並べすべてを自分の都合のいいように解釈したスモーキー推しの感想。一回目なので多分いろいろと勘違いしてる部分も多いです。あとザム3のスモーキーの扱いに納得いってない人は見ないほうがいいと思う。

スモーキ―の死は残された者への祝福であってほしい。


High & Low the movie Final Mission 観てきた。
恐らく多くのオタクが口をそろえて言うようにハイローを見るまではEXILE一族は自分の正反対のジャンルだと思っていたし、何ならいけ好かないくらいパリピ集団くらいの偏見を持っていた。本当に申し訳ない。しかし、ツイッターで大暴れしているザムを面白半分で見に行った結果見事に脳みそを殴られてハイローゾンビとなった私。そのハイローを観に行くきっかけになったのは窪田正孝さん演じるスモーキ―の存在が大きかった。もちろん「どうしちまったんだよ琥珀さん!!」などのパワーワード、インパクトしかない日向のボンネット乗車(ウテナ好きからすると完璧暁生カーなのもポイント高い)につられなかったかというと嘘になる。なんなのあれ。しかしもともと窪田さんのファンだった私は彼が演じるスモーキ―に興味を持ってハイローワールドに足を踏み入れた部分が一番大きかった。そして、そのまま思いっきり脳みそを溶かされてしまった。スモーキ―の完璧二次元キャラのオーラ、語らずとも感情の見える確かな演技力、ソリティアのように積まれた属性の数々、スピーディーで華麗なアクション。一瞬にして虜になった。その後順調にハイローを履修し、ハイローは国推しと豪語する私だが、それでもやっぱり一番はスモーキ―でRUDE BOYSだった。

さて、ザム3だ。もうすでに冒頭で言ってしまったが、スモーキ―は死ぬ。容赦がねえ。
正直新作が出るたびにスモーキーの生死は我々をハラハラさせてきた。特にザム3は情報解禁の度に死亡フラグが乱立してたしスモーキーの行く末には演じる窪田さんの提案も盛り込まれているということで「死ぬかも」という予測が濃厚だった(彼は演じる役に生ぬるい提案は決してしないと思っていたので)正直死んでほしくないのも確かだったけど、ここまで死亡フラグだして生き残るっていうのもなんかどうなのって感じもあったので、スモーキ―が死ぬにしてもいかに死ぬかそこをどうにかしてほしいとだけ思っていた。

予測通りスモーキ―は死んだ。正直外れてほしかった。それでも死んだ。
彼の最後は家族のために病身の自分が残りそして九龍との戦いで死ぬというものだった。あれだけ私を魅了したスモーキーのアクションはなかった、ともすれば淡々としているように見えるほどだった。「人のためじゃなく自分のために生きろ」「生きることを諦めるな」と言って自分が犠牲になったスモーキー、そのスモーキーを置いていったルード。そうやって見てしまうとスモーキーには「お前が言うなよ」タケシたちには「殴ってでも止めろよ」みたいな意見が出ることはわかる。実際見た。でも、私は、彼の死は自分勝手でもないし、タケシたちに残した呪いでもない、自分の人生への肯定と残された家族への祝福であると信じたい。

九龍の重機を用いたローラー作戦でどんどん追い込まれる無名街とルード、最後に立てこもった中で「俺はここを出ねえから!」と息巻くユウ。きっと他のメンバーも同じ気持ちだったと思う。私はそこでスモーキーが「無名街を出る」ということを提案することは個人的には意外なように思えた。ザムなんかで復讐に乗り出すスモーキーなんかを見ていると無名街に一番執着しているのはスモーキーだと思ったから。
でもスモーキーにとって一番大切なのは家族だった。むしろ無名街を出たら生きていけない、ここにいなければ家族でいられないと思っていたルードに「どこにいても家族だ」というあのセリフ。無名街に生き、無名街に死ぬ自分と違い彼らには無名街の外にはばたく強さと翼がある。あれは希望であり祝福だと信じたい。タケシたちに生き抜くことを示した彼からの門出の言葉だと。

だったらスモーキーも生きるのを諦めるなよ、とかタケシは殴ってでも止めろよ。とか思うのもわかる。きっとあそこでスモーキーを引きずってでも逃がせばスモーキーはもう少し生き延びたと思う。もしかしたらもう少しで助けが来て、抗争の後静かに病死ってオチもなくはなかったと思う。
でも、それはルードのリーダーとして、「スモーキー」として生きること、彼の誇りを殺すことになってしまったのではないかなとも思う。彼はルードのリーダーとして生きて、そうあったまま死んだ。それがスモーキーの誇りであり幸せだったから。その点において彼は一貫していた、彼は「スモーキーとして生きる」ためにあそこの場で残った。
日数をちゃんと覚えてないけど、隠蔽資料に載ってた被害者の死亡が発症後20日くらいだったと思うのでそう考えるとスモーキーはかなり生き延びているし、相当具合が悪そうだった。ザム3の時点でかなりギリギリの命だったんじゃないのだろうか。そう考えるとスモーキーとして生きる最後のチャンスだったのかもしれない。
ザムでルードの旗に書かれた「change or die」スモーキ―はスモーキ―として変化することなく、そのまま死んだ。でもタケシたちはそうじゃなくてもいい、変わることを恐れずに、それでも自分たちは家族だから、一歩を踏み出してくれというスモーキ―の愛情で今後の彼らへの門出のシーンだったのではないかと思う。もちろん、反論もあるだろう。でも愛の意味さえ知らない、子供でいることを許されなかった子供たちの家族のため、大人になるための決断がそれだとして、私に何を責める権利があるのだろうか……などと思い始めてしましました、私はモンペです。
あのシーンのスモーキーの穏やかなまでの透明感、静謐さ。少し上がった口角。あんなに透き通ったスモーキ―のあの表情が本当に守護者でもう、心に刺さりまくった。すごい役者さんですよ、本当に。

スモーキーの意志は決して死んではいない。スモーキ―の死から立ち上がるルード、その場に集い進んでいくSWORD。正直ヤマトと広斗のセリフに泣いた。スモーキー生きてるじゃん(パンフの登坂さんのインタビューもよかったです読んで)なんというか仰々しいスモーキ―への弔いはなかったけど、あそこに集い、それぞれの意志を通していくSWORDすごくかっこよかった。特にスモーキ―が死んだ後のルード、馬場に「無名街の住人はみんな家族だ」と告げるタケシのその姿、スモーキーがちゃんと彼らの中にいるんだなってことがわかってすごく救われた。もちろんスモーキーはもういない。それはみんなちゃんとわかっている。でも大事なものをそれでももらったんだよってことを勝手に信じてしまうことは許して欲しい。

なんかよくわからなくなってしまったけど、スモーキーの死は決して呪いでも敗北でもなくて、タケシたちへの祝福というか希望の一端になってくれたら私は嬉しいという話でした。あとハイローって意外と保護者というか守護者の立場の人が死ぬよね、龍也さんとか尊龍とかもしかしたら九世会長もそうかもしれない。その喪失を乗り越えて子供たちは今度は自分が守護者になり責任を負う大人になっていくのかもしれない。

もう一つ言うなら二階堂さんとスモーキーのやり取りが本当にめちゃくちゃ興奮したオタクなのだけど、無名街が忘れたい、消したい過去であった二階堂と無名街が家族のいる今であり希望ある未来へつながっていたスモーキーとか……しかも最初から決まってた設定というところにハイローすごいと思いました。無名街爆破で完全には消えなかったから二階堂の消したい過去は消えないし、そこにはスモーキーの墓があるんだよなあ……。二階堂さんがカインということだと、アベルはスモーキ―になるのか……?そうすると二階堂はやっぱり無名街での人生に幸せを見出したスモーキーに思うことがあったのだろうか。
死体は思ったよりきれいでルードのもとにちゃんと帰っていたのも二階堂さんの思うところあったのでしょうかね……まあ家村会仕事が雑ってこの作品だけでめちゃくちゃいわれてるので、そういうことかも。
あのシーンでスモーキーの幸せの始まりがララに会った瞬間っていうのも大変にキました。
個人的には実はスモーキーは最後のシーンはそんなに戦わなかったのではないかと思ってる部分もあるんだけど(九龍の目的は自分の死ということもあって)大群に向かって静かに歩いていくスモーキー、決して負けてはいなかったと思う。

スモーキー推しになって、推しの最後を見るのはとてもつらいけど、それでも全員主役の超大作であそこまでのシーンを見せてくれたハイローには大きなありがとうを伝えたい。スモーキ―は今後も絶対どこかで生きてくると信じてます。あとスピンオフまってます。ノベライズとかでも。今RTTで泣きそうになっている。
一つあえて言うならシオンはいったいどうしてるんだということです。

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