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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』(岩波書店)


これまで歴史上でバラバラだと思われた事象が、一つの大きな環になったように思える読書体験を味わえる本。戦後の世界の流れから現在に至るまでの世界システムの変遷を知るための必読書になると思われる本書は、読み終えたと同時に「目からうろこが落ちる」本であった。この本の内容はコリイ・ドクトロウ『リトル・ブラザー』(早川書房)にも関連している。どちらかというと『ジェニファー・ガバメント』『宇宙商人』的ディストピア世界への移行の可能性があるのか、現在進行中の現象について取り扱った本といえよう。

本書はミルトン・フリードマンとその弟子筋、教え子たちとその思想に心酔する人々が、政府による規制や介入を一切合財排除し、市場メカニズムに資源配分を任せる「改革」を「人々が正常な判断ができない「ショック」状態のときに行った恐怖の社会実験の歴史を冷静に分析し、叙述した本である。ナオミ・クラインは自然災害などの危機を利用して、徹底した市場改革、特に民営化や自由貿易を推進する原理を「惨事便乗型資本主義」と名付け、それが民主主義とは相いれないことをチリ、アルゼンチン、ブラジルなどのラテンアメリカ、さらには911後のアメリカ、イラク戦争、スリランカやニュージャージーでの大惨事などのケーススタディを取り上げ、大虐殺や災害の直後に何が国家に起こったのかを記す。G・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』(岩波新書)ほかでつづられたラテンアメリカ文学の政治的不条理の世界の背景知識が明らかになると同時に、惨事便乗型資本主義がどうやって災害を利用して、自分たちのレントを拡大したのかそのからくりも明らかになる。

ショック・ドクトリンとはもともと米ソ冷戦下の1950年代にカナダのマギル大で行われていたショック実験に由来している。この実験は被験者に対して電気ショック、感覚遮蔽、薬物投与などの「身体的ショック」を過剰なまでに与えることによって、被験者の脳を白紙にし、その後自分たちに都合の良い刷り込みができるかどうかを実験した実験に由来する。この考えはシカゴ学派のノーベル経済学賞受賞者であるミルトン・フリードマンに継承されていく。当時はケインズ経済学(政府による市場の介入を重視する)が活発で、フリードマンの経済学は異端視されていた。ところが戦略的にフリードマンたちはラテンアメリカから学生を呼び寄せフリードマン流の経済学を教育した。そしてその教えを修得した学生たちは、シカゴ・ボーイズと呼ばれ故郷に戻り、フリードマン流の経済学を実際の経済に応用すべく奮闘した。ところが民営化を行うことは結果として、民営化の分け前に参加できた海外大企業や一部の政府高官や政治家たちだけであり、民営化によって得られるはずの国富は一部の人々のレント配分として、社会全体の財配分をゆがませるものになってしまった。つまり一部の富裕層に富の再配分が行われるこの方式は、パレート効率的な配分とはいえ、衡平性の点では不満が募るものであった。

ネオリベラリズムのメカニズムは、民営化を通じた国富のレント配分である。一部の特権階級が富を分配するチャンスは、大災害や人為的なショックによる思考停止状態にあるときにのみ(フリードマンの言葉では、「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」)大胆な変革を行うことができる。資本主義経済は、フリードマン流の経済学によってリミットが外れてしまい、その結果「今まであった社会を破壊し、民営化や市場に任せることで、一部の人たちのみが財の配分の上で勝者となる歪んだ市場を作る」状況が生まれ、それがまさにマイケル・ムーア監督の「ザ・キャピタリズム」等で描かれた問題を生み出している。

ショック・ドクトリンは、中央政府が独裁で行う場合、非常に効果的に働く。逆に民主主義が発達している国々では、民衆によるチェック機能とフィードバックがあるため、ショック・ドクトリンは防止されるケースが多い。そのため、フリードマン流の経済理論を応用する際には、人々の恐怖を増長するような誘拐・拷問などが多発。無辜な大勢の人々の命が失われた。大きな変革のときにどさくさに紛れて、自分たちのものにするという思想はブッシュJr時代にイラク戦争という形で集大成し、イラクに大きな傷跡を残す。そのあたりの話はドキュメンタリー映画「シャドウ・カンパニー」に詳しく内情が描かれている。国民軍の創出から公共財的な役割が高かった軍隊が、再び中世のように民営化により、軍隊が民営化していくことで、国家権力に属さない民間の軍隊が戦争を請け負うことで、国家の存在意義を問う形になっている(これは現在、ロシアのウクライナ侵攻で活躍した、ロシアの傭兵組織ワグネルを見ると明らかである)。このあたりの話を虚構としてSF化したのが、伊藤 計劃『虐殺器官』(ハヤカワ文庫JA)。『虐殺器官』のラストには、実はフリードマン流の経済思想が色濃く反映しているのかもしれない。

本書の面白さは、事実関係とインタビューのパズルピースから、ショック・ドクトリンのセントラルドグマがフリードマン流の経済学だったことをミステリ小説のように明らかにし、この思想こそが大きな惨劇をもたらしたことを示したことにあるだろう。社会科学においては、社会実験の再現は難しく、そのことを踏まえたうえで慎重な政策提案などをしなければならない。経済の処方箋としては、さまざまな意見をきちんと集約化したうえで、現場のニーズと市民のコンセンサスに沿った経済政策が必要である。そのことを考えないで、一方的に一つのイデオロギーを基礎に経済政策を行うことで、一方的な搾取や強制が起こるのであれば、絶対君主と同じである。また経済政策などは理系とは異なり、再現が不可能であるため、経済学者はもっと謙虚であるべきだと感じる。特に、開発経済で主導権を握るジェフリー・サックスについては、かなり彼への見方が変化した。良い市場を作るために、いったいどのような経済システムがよいのか、一度立ち止まって考える必要があるだろう。

フリードマン流の経済学と書いているのは、宇沢弘文・内橋 克人『始まっている未来』(岩波書店)で、宇沢弘文先生がフリードマンの話を書いていて、同じシカゴ学派でもフランク・ナイトらとは異なるためである。あくまでもフリードマンが提唱した経済学の思想である。ナオミ・クラインはそのあたりはごちゃまぜにしているので、シカゴ学派でも「フリードマンに薫陶を受け、その思想を拡散していった人々」の功罪を描いているともいえよう。

ラテンアメリカ文学に興味のある人にお勧め。そうでない人でも、特に経済体制や世界の潮流について知りたい人は必読の文献である。堤美果さんがナビゲートする100分de名著で本書も取り上げられたこともあり、資本主義システムがなぜ歪んだのかを考えるきっかけになる本でもある。


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