【書評】イヴォ・アンドリッチ『アリヤ・ジェルゼレズの旅』

 19世紀のボスニア・ヘルツェゴヴィナを生きた名力士アリヤ・ジェルゼレズの放蕩記。オスマン帝国治下のバルカン半島やイスタンブールを往復しながら名力士として名を馳せたジェルゼレズは数年ぶりにボスニアに帰ってきた。彼が酒場をたむろして酔客たちとの談義や諍いへと次々に巻き込まれていく様は、オーストリア・ハンガリー帝国による併合や数々の反乱が引き起こされた19世紀のボスニアの混沌を象徴しているかのように思われる。

酒場で人生の暇を持て余した人々の悪意や嫉み、街区を闊歩する気位高き女たち、そしてロマ人の踊り子の興行に対して一喜一憂し、前後見さかいなく突っ込んでいく滑稽だ。しかし彼には悪気はなく、純真にして素直な欲望を振りまいているだけなのである。

このわい雑な小説の美しいところは、その一人の男の破滅的な人生の背景としてボスニアの物悲しくも美しい星空のような情景が描き出されているところである。彼の描写には常にアルコールの匂いが伴っている。酔って眠りに落ちた酔客たちの周囲にも自然は世人と変わらぬ夜を供している。夜露に濡れた秋口の優美な宵が訪れると、熟した果樹が地面に落ちる音が響き渡り、しんしんたる詩情に満ちた情景が広がる。

人間の立場や気位は違ったとしても、自然や四季は変わらぬ愁いを人間たちにもたらしているのである。

ロマの遊女を追って夜宵川に転落し、街区で見かけた気位高き女にあしらわれると、さすがのジェルゼレズも気を落としてしまった。自暴自棄で見境のないように見える彼にも世人と同じように自らの人生や運命に対して思うところがあったのである。人生と自らの生命に対する哀しみ。ジェルゼレズはサラエボ市庁舎脇を流れるミリャツカ川をラテン橋を通って下っていった。

彼は小さな庭へと足を伸ばし、階段の上に設けられた美しい小部屋を訪れたり迎えた寡婦のエカテリーナは手際良く彼の洋服を脱がせ始めた。ロシア女にズボンの上から口づけをすると、彼は彼と女という存在とを結ぶ運命のか細い糸が光輪の様に回り始め、同時に不幸で、痛々しく、雑然とした記憶が空の胸中をよぎり離れなくなった。

その痛切なる感情は輪郭をぼやかしつつ、離れようとはしなかった。人生の懊悩の大半を女という神秘の道へと向けた彼は、今自分を愛撫し続けるエカテリーナの腕に自らの身寄りのすべてを委ね、束の間の人生の休息と甘美な感情に酔いしれた。そこには荒くれ者ジェルゼレズにとってのやすらぎと、一人の人間としての安寧があったのである。

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