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〔翻訳考〕 山崎豊子『二つの祖国』より


山崎豊子さんの小説に『二つの祖国』という作品がある。太平洋戦争の際に収容所に収容された日系米国人たちの悲惨な処遇、日米開戦から日本進駐、東京裁判までの運命を描いた作品である。

この作品の主人公・天羽賢治(あまは けんじ)は米日言語間の通訳を行う語学兵として太平洋戦線に従軍し、日本の降伏後は東京に駐在して極東軍事裁判の「言語調整官」という役職を務めることになる。これは、裁判を通して裁判官、検察官、被告の主張が遺漏なく伝わっているかどうかを確認し、誤りや認識違いがあればストップをかけて認識の差異を「調整する」という役割である。

この物語の終盤で日系米人たちからなる言語調整官たちは芝白金三光町にあった通称「服部ハウス」に缶詰めにされ、極秘であった東京裁判(極東軍事裁判)の最終判決文を渡される。戦後日本の統治・社会に大きな影響を与えうる判決書の翻訳に当たり、小説中で交わされた「覚書」があるのだが、これは簡潔かつ明瞭に翻訳という作業の要旨を捉えていると思う。

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判決訳文編集方針

判決文翻訳作業にあたり、次の点を各人、頭に入れ、ベストを尽くして一分一秒たりともゆるがせにせず、後世に残る世紀の判決文作成に携わって下さるように願います。

一、一般要項

本判決文は、1928年から1945年にわたる日本をめぐる国際情勢の歴史を叙述して、その間の被告の言動に対する法律上の責任追及の最終決定を下すはずである。翻訳にあたっては、その内容を最も簡潔、正確に表現するような文体、語調を選ぶことを、翻訳、監修、編集の一般方針としたい。

二、心構え

編集者としては、被告の生死を決する判決文作成にあたって、連合国代表判事の態度は最も真摯かつ慎重なものと察し、その態度に即する心構えをもって翻訳作業に従事されたい。

三、語調

判事諸公に代わって、判決文を一般社会に発表するという立場を考慮し、一切の個人的感情を払い、穏当な用語で臨むこと。冗漫に流れず、簡略に過ぎず、文学的ニュアンスを狙った表現や、ペダンティックな作文を避け、原文のニュアンスに忠実にして平易な文章を使いたいと思います。

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この編集方針の中で、特に「三、語調」は翻訳の要旨を捉えていると思う。穏当な用語を使って情報の受け手である読者に穏やかに語りかけ、衒学的内容を避け、原文のニュアンスにある種のロイヤリティーをもって、というところに誠実さを感じる。

また服部ハウスにおける翻訳作業においては「耳で聞いて分かるように」という点も、ことさら強調される。国際条約や法律の難しい定義や根拠に基づく判決文を読んでも、一般人は内容を理解することはできないだろう。特に今回は敗戦国旧指導部に対する戦勝国側の判決であることから、非常にセンシティブな内容である。その判決文の「道理」を民衆が理解することができなければ、政治・社会的な混乱を引き起こす危険性までを孕む。

服部ハウスの言語調整官チームはこの難タスクに成功することができた。これは日本側の旧文部省や旧帝国大学の教授らに加えて、かつて戦前に日本に留学していた日系米国人たちが翻訳チームに参加し、特に後者の人々が激動の戦争の時代に米日両国の人々に接した経験を生かして真摯かつ良心的に作業をしたことにその要因を求めることができるだろう。

東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁いた報復裁判という側面はあるものの、こうしたプロセス自体が戦後の民主主義確立の礎になったことは否めないだろう。それは軍が中心となってイデオロギーや建前主義が支配した戦前とは隔絶したものであった。

この小説では、「語学兵」・「言語調整官」という地味で目立たない職務の主人公を中心に据えている。日本という国の政治・社会・言語・歴史が断絶するのか、継続するのかという極限状態において、判決文を一文一語に至るまで正確・真摯に訳そうとした主人公の姿が読む者の心を打つ。

小説であることからある種劇的な展開になっているものの、東京裁判や終戦直後の政治・社会の流れを掴む上で参考になる作品である。


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