わたしが「自由」が苦手な理由


 心理学の本を開くと、こんなことが書かれている場合がある。

「自由主義や保守主義などの政治的なイデオロギーを主張している人たちは、表向きには論理的に各イデオロギーの主張を検討した結果として納得のいったいずれかのイデオロギーを論理的に支持しているように見えるが、実際にはどのようなイデオロギーを支持するかは心理的・生得的な要因に左右されている。自由主義を支持する人は、自由主義が正しいから支持しているのではなく、その人が生得的に自由主義的な傾向を持っているからだ。保守主義を支持する人も、保守主義が正しいから支持しているのではなく、その人が生得的に保守主義的な傾向を持っているからである。」

 たとえば、『社会はなぜ左と右にわかれるのか:対立を超えるための道徳心理学 』という本を著しているジョナサン・ハイトは上記のような主張をしているなかでも代表的な論者だ(彼のTEDトーク動画はこちら)。わたしはハイトの本を読んで以来、「政治的信条は生得的な要素に由来する」という説にやたらと惹かれるようになって、同様の説を唱えている本や反対の説を唱えている本を洋書も含めていくつか読んだ(ハイトに反対する説を主張している人としてはジョセフ・ヒースジョシュア・グリーンが有名である)。そのなかでも印象に残ったのが、ジョン・ヒディンズという人が書いた『Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Difference(すでに備わっている傾向:リベラルと保守派と政治的差異の生物学)』という本である。この本の内容については、要約的な文章を以前に翻訳している。



 要するに、「不快な物事」や「脅威を及ぼすような物事」に対して生理的に敏感な人々は保守主義に傾きやすく、それらの物事に対して鈍感である人々は自由主義に傾きやすい、ということだ。そして、不快や脅威に敏感であるか鈍感であるかは生得的な側面に左右される。

 研究所などで検査してもらったことがあるわけではないので正確なところはわからないが、わたしは不快や脅威に対してかなり敏感な方であるように思える。ゴキブリなどの虫が苦手なのはもちろんのこと、子どもがボール遊びをしている横を通り過ぎるだけでもボールが自分に当たらないかとヒヤヒヤしてしまうし、ガラの悪い人や警官などが近くにいてもそわそわしてしまう。どんな人にもそういう傾向はあるかもしれないが、同級生とか同僚とか友人とかと比べても自分の方がその傾向がずっと顕著であるのだ。だから、生得的には保守主義的な傾向の方が明らかに強いはずだ。

 また、自分に直接に脅威を及ぼさないものであっても、自分の慣れ親しんだことから外れた新奇なことについては、生理的としか言いようのない不快感を抱くことが多い。たとえばタトゥーをしている人を見かけるたびにモヤモヤとした嫌悪感が身体の内側に生じるし、最近流行りのピンクや原色の染毛は目にするたびに毎回イラっとする。外国人ばかりの職場で一年働いたこともあり、外国人だからタトゥーしている人や染毛している人が数多くいたが、彼らに対して慣れることはついぞなかった。レギンスやヨガパンツなどを履いてボディラインを強調した性的な格好で職場に来る女性に対してもやはり嫌悪感を抱いてしまっていた。

 とはいえ、生理的な嫌悪感であるということは、論理的な根拠はないということだ。タトゥーに関しては「刺青は元来は示威行動だから、タトゥーをしている人たちは他人に対して挑発行為をしている人たちだと見なしてよく、だから彼らを嫌うことには問題がない」という理屈を考えてみたこともあったが、どうしても論理的なものにならないし自分で言っていて説得力を感じられない。そもそも、生理的な嫌悪感に対して論理的な理屈付けをして正当化することは、世の中に存在する数多の差別意識の出発点となっている。だから嫌悪感に基づいて何かの理屈を主張したりするべきではないし、嫌悪感を他人に対して表明するべきでもない、ということが基本だ。そういうことをすると差別主義者になってしまうからである。


 わたしは生理的には保守主義的であるとしても、意識的には自由主義であったり平等主義であったり反差別主義でありたいと思っている。そもそも自分自身が在日アメリカ人というマイノリティとして育ってきたのであるし、自分が住んでいる日本社会からは色々な点で外れた存在である。経済力もないし、社会的地位もないし、身体も弱い方である。こういう立場であるのに、あんまり既存の社会規範に盲従したり多数派に同調したりしてしまうと、自己矛盾をきたしてしまうのだ。また、両親もリベラル寄りであるし、物心ついてから読んできた本も基本的なリベラル派の著者によるものであった。リベラル的な考え方が当たり前のものとして頭のなかに入っているのだ。また、単に慣れ親しんでいるだけでなく、客観的に理論や根拠から判断してみても自由主義はほとんどの場合に保守主義よりも正しいと考えている。

 とはいえ、身体(生理)は保守主義的だが頭(意識)は自由主義的、という矛盾には苦しむこともある。他者に対する生理的な嫌悪感を抱いておきながら、「この嫌悪感には根拠も正当性もないし、そもそもこの嫌悪感を抱くべきでない」と頭で考えて抑圧することは、それはそれでストレスが発生する行為であるのだ。

 一方で、身体も頭も自由主義的な人たちに比べると、自分の方が保守主義的な人たちの気持ちや考え方が理解しやすい、ということはメリットと言えなくもない。たとえば「夫婦別姓」という話題に関しては、自由主義的な人たちが保守主義的な人たちについて「他人同士が結婚しても姓を変えなくて済むように認めるようにするだけであり、自分に対してなにかの抑圧や強制が発生するわけではないのに、どうして反対する理由があるのだろう」と本気で理解できずに悩んでいる光景をよく見かける。だが、「夫婦別姓」に反対している人の大半はそもそも理由や理屈に基づいて反対しているのではなく、ただ他人が自由を行使できるようになることが不快で脅威だから反対しているのだろう。そして、私にはその気持ちがわからなくはないのだ。


「自由」ということに関しては、基本的には何事に関する自由についても万人に対して認められるべきだと考える一方で、安易に「自由」を肯定したくもないという思いもある。多くのことについて、「自由」の肯定は競争主義やメリトクラシーとつながっているからだ。

 たとえば、高校や大学などの学校における「自由な校風」は、エリート層が行く学校にしか認められないことが多い。京都大学のものを筆頭として「自由な校風」を讃える風潮に対する文句や批判をわたしは色んなところで書いてきたが、それは、自由主義の裏にある能力主義があまりにも手放しで容認されていることが我慢ならないからである。

 また、LGBTに関することはともかく、異性愛者に関する保守的な道徳的規範…つまり、あまり性的に奔放であったり不特定多数の相手と関係を持つこと良しとしなかったり既婚者の浮気や不倫は非難すべきものであるとしたりする規範も、すぐには否定できない。そのような規範が人々の自由を縛り付けるものであることは疑いがないし、様々な女性差別の原因となっていることもたしかだ。しかし、恋愛や性交渉に関する自由主義を認めることはそれに関する競争が激化することを容認することであるし、そうなると一夫多妻的で勝者総取り的な世の中になることは火を見るよりも明らかだ。競争に勝ち抜く自信がない私のような人間にとっては、そういう世の中が訪れたとしてもなにも得せずに損ばかり被ってしまうのである。保守的な性規範が多くの社会で残っている理由の一つは、競争が激化して人々が疲弊したり歯止めがつかなくなることを抑止するものとしての存在価値があるからだろう。保守的な性規範がなくなることで幸福になる人々の姿も想像できるが、不幸になる人々の姿も想像できてしまうのだ。……そして、性規範に限らず、何らかのことに関する「自由」を縛り付ける社会規範の多くはそのことに関する「競争」を抑止する社会規範でもある。自由がなくなることは嫌だが、競争を強いられることも嫌なのだ。

  

 数年前、カリフォルニアにある祖母の家を訪ねたときに一度だけカリフォルニア大学のバークレー校を観光しに行ったことがあるのだが、そこにはほんとうに「自由」な雰囲気にあふれていて目に付く学生のみんながみんな自由を謳歌して自己肯定感にあふれた笑顔をしているように見えて、ものすごく気が沈んだ思い出がある。バークレーにあるような「自由」は自分には一生縁がないものであるし、もし縁があったとしてもこれまでの人生でそのような「自由」に触れてこなさ過ぎてきたので謳歌の仕方もわからないだろう、という拗ねた思いを抱いてしまったのだ。これはもう単なる嫉妬や僻みである。しかし、たとえばアメリカにおける都市リベラルと田舎保守の対立などを見ていると、保守主義の主張とはこういう嫉妬や僻みに起因している部分もなくはないように思える。

 嫌悪感や嫉妬や僻みなどのネガティブな感情から生み出された主義主張や規範などは、大半の場合は非生産的で正当性もなくロクでもないものであるだろう。しかし、嫌悪感や嫉妬や僻みを否定して切り捨ててしまえるのも、前を向いて生きている強者だからこそできることであるかもしれない。それは、なにが正しくてなにが悪いかという話とはまったく別の領域の話だ。しかしこういうことを考えているとどうしようもなく悲しくなったり虚しくなったりしてしまうのである。





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