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お酒とわたし


 自分の飲酒量について改めてふりかえってみると、人生がうまくいっていない時期には飲酒量が増えてしまうし、多少はマシな時期には飲酒量が減る。人と会いに行ったり会社などの集団の飲み会に参加する機会は年々減っているとはいえ、わたしは一人で酒を飲む習慣を身に付けてしまっている。むしろ人と会わない時期であればあるほど、飲酒量が増えてしまう。これは不安をまぎらわせるためでもあるし、孤独をまぎらわせるためでもある。

 そもそもの問題点が、実家にいた頃から「晩酌」の習慣を身に付けてしまっていたことだ。わたしの家族の食事は西洋風のものが大半であり、そして家族のみんながワインを飲む習慣を身に付けていた。パンも出されるしおかずの味付けもワインに合う。というか、むしろワインと一緒に食べることを前提とした味付けであるフシがあった。たまに中華や和風の食事が出されるときがあったが、その時はビールを出してもらっていた。そういう食生活のおかげで「美味しいものを食べるときにはワインかビールかが一緒じゃなきゃ勿体ない」と思うようになってしまったのである。

 わたしの飲酒量が特にひどかった時期は、実家暮らしでフリーターをやっていた数年間のうちの後半と、東京に上京した最初の一年間である。フリーターの時期はなにしろ人生の展望が全く見えなかったし孤独だった。この時期には、家にあるワインとは別に300mlのポケットサイズの缶ワインを毎日のようにコンビニで買って家に帰っていた。小さいサイズの缶ワインを買っていた理由は、飲んでいるところや飲んだ後の容器を親に見つかって心配されたり怒られたりする可能性を低くするためである。上京した直後も、はじめてフルタイムで働く仕事のストレスがすごかったし初めての一人暮らしによる不安も相当なものだったしで、飲酒量は減らなかった。このときからは生活のために酒代も節約する必要があったので、2リットルのワインが入った激安の「箱ワイン」(プラスチック製の取手がついた箱のなかにある、蛇口が付いたプラスチックの袋にワインが入れられていて、蛇口だけを箱から出してそこからワインを注ぐタイプのもの)を4箱とか6箱とか買い溜めするのが普通になっていた。リットルあたりの金額は、箱ワインがいちばん安く済むからだ。まともな金額の値段のワインに比べるとその味はかなりひどいものであったかもしれないが、味の違いがわかるほど良いワインを飲んだ経験はないのでそこを気にすることはなかった。 

 上京してからしばらく経ったときに恋人ができて、恋人と付き合っている時期の後半は飲酒量が抑えられていた。酒を飲む理由のひとつは孤独と不安をまぎらわすためだから、恋人と親しくなってからはそれが解消できたということである(京都にいた時にも恋人がいる時期はあるにはあったのだが、そこまで親しくはなれなかった)。また、しばらくアルコールを断つと自分の顔のむくみが取れたり体臭や肌ツヤも良くなったりして相手に喜んでもらえるので、デートの前の二日間や三日間は酒を飲まないようにするモチベーションやインセンティブがあった。結局はその恋人とも別れることになったが、彼女と付き合っている間に「晩酌」の習慣を消すことに成功した。つまり、夕食を食べるときには酒がいつもセットになる、という癖をなくすことができたのだ。

 このときに導入したのがノンアルコールビールである。実家の食生活の影響を引きずって、わたしが家で作る料理も酒と一緒に食べることを前提とするものばかりであったから、つい油っこくて味の濃いものになってしまう。ノンアルコールビールはビールらしい味がするし炭酸によって後味を爽やかにしてくれるので、こういう料理とよく合う。また、アルコールは入っていなくても喉ごしはビールのそれなので、仕事を終えて家に帰ったあとの疲労感を解消してくれるのだ。

 そして、晩酌の習慣がなくなった代わりに、夕食を食べ終えたあとに本を読んだり映画を見たりしながら酒を飲む習慣ができてしまった。このときに主に飲む酒はウィスキーだ。腹八分目で夕食を済ませて、ミックスナッツやジャイアントコーンをつまみながらちびちびとやる。家のすぐ近くにはカクヤスがあり、一本1000円で最低限の味がするウィスキーが手に入る(「最低限の味」とは、ブラックニッカほど不味くはないということだ。学生時代には安いからとブラックニッカに手を出してはその不味さに後悔していた)。ウィスキーのいいところは時間を保たせられるところだ。ノートパソコンの小さな画面で映画を見ていると手持ち無沙汰になってしまいすぐに集中力が途切れてしまうが、ロックやストレートを飲みながら観るとちょうど良いのである。

 また、ノンアルコールビールと同じタイミングでハーブティーを導入した。手持ち無沙汰であったり口寂しいときにはつい何かを飲みたくなるが、コーヒーやお茶を飲んでしまうと夜に寝れなくなる。しかしノンカフェインならその心配もないし、胃も落ち着くし睡眠にも良い効果がある(らしい)。カルディなどに行けば安価に買える。ウィスキーのチェイサー代わりにもなる。

 わたしがひとりで酒を飲むときの事情は、こんなところだ。


 集団での飲み会に参加することはとんとないが、ひとりかふたりの友人と外で飲んだり宅飲みをすることは毎週のようにやっている。チェーンの格安の居酒屋で飲むこともあるが、わたしたちの金銭事情的には格安の居酒屋ですら高価になるので、そうそう行けるものでもない。以前に暮らしていた沼袋には友人たちと一緒に常連になっていたスナックもあったが、ある晩にヤクザまがいのオーナーが酔っ払ったときに殴られそうになったのでそれ以来行っていない。いま住んでいる四ツ谷には貧乏人が集まってワイワイできるような店はなく、どこのバーもスナックもそれなり以上の値段が取られる。というわけで外で飲むか宅飲みするかが主流だ。これは私にとって特に都合が良い。というのも、翌日に仕事やデートの予定があるなどで「今日はあまり飲みたくないな」という時には、友人が酒を飲んでいる横でノンアルコールビールを飲むことができるからだ。誰かと一緒に飲むという行為においてはアルコールそのものよりも「同じ行動を一緒にしている」ということが充実感とかリラックス効果とかを与えるらしく、ノンアルコールビールでも自分を錯覚させることができる。それでも、友人の飲んでいる酒が美味しそうだとつい誘惑に負けて自分もアルコールを摂取してしまうが。

 私は社会人になってから新たに友人を作ったことがほとんどなく、大学生の頃からの友人と飲むことがほとんどだ。普通は社会人になったら金に余裕ができて「大人の飲み方」ができるようになり、ちょっといい一品を出す居酒屋とかシックなバーとかに行ったりするものであるのだろうが、私も周りの友人も稼ぎがよくない状態で東京で一人暮らしをしているものだから、いい店に行く余裕なんか全くない。だからいまでも宅飲みや外飲み(公園や川辺などで飲むということだ)が主流だ。しかし、大学生の頃に比べて社会人の頃の方が日常のストレスは明らかに増えているし、将来への不安もむしろ昔より増えている(30歳を過ぎても全く貯金が貯まらないからだ)。フリーターの時にも漠然とした不安や慢性的なストレスに苛まれていたが、社会人になってからもそれが大して好転したわけではない。そして、飲んだり遊んだりする機会の数自体は以前よりも減る。だから、友人は平日のストレスや不安を洗い流すがのごとくかなりの量を飲んで泥酔するし、私もノンアルコールビールを発見する前には同じように泥酔することが多かった(いまでもたまにそうなる)。ぜんぜん「大人の飲み方」ではない。

 30歳を過ぎると身体の機能は明らかに衰えてきて、酒による悪影響も如実にあらわれるようになった。顔がむくんだり、腹が出たりするだけではない。わたしは飲んでいる間はその晩はいくらでも飲めるし意識を失ったりすることもないが、次の日にダメージが一気にクるタイプである。睡眠の質が悪くなり、頭が痛くなり、体が重くなって、不幸感に苛まれる(セロトニンの分泌が抑制されるせいだ)。自分の体質をだんだんと理解してきてなるべく二日酔いにならないように飲酒量を抑えてはいるのが、ストレスや不安などが強い日(逆に、ごくまれにではあるが、飲み会などで楽しくなって羽目を外した日)には抑制がきかなくなる。それで次の日に後悔する。

 ノンアルコールビールで回避することを覚えたとはいえ、「友人と会うときは酒を飲む」ことが習慣として定着してしまっていることも問題だ。これは属するコミュニティや交友関係の築き方などによって変わってくるだろうが、周りの友人たちにもわたし自身にも「男同士で一緒にいても、酒を飲まないと楽しくない」という気持ちがあるからだ。逆に、恋人と一緒にいるときには酒を飲まなくても楽しく会話したり外に出かけることができたので、その点が健全で良かった。


 酒や飲酒について考えるときに思い知らされるのは、それは「嗜好」でありある種の「文化的営み」であると共に、それでも摂取している物自体はけっきょくは「毒」であるということだ。酒や飲酒という事象についてはついつい美化したり陶酔したりしてしまいたくなるのだが、そうすることは本質的な問題から目を逸らすことでもある。

 酒や飲酒には「自由」のイメージがあるし、パンキッシュな「反抗」や「退廃」のイメージもある。大学生の頃、授業を抜け出して学校の屋上で酒を飲むことには他で味わえないような解放感があったことはたしかだ。学生時代の友人たちのなかには、「人と会って話すことは久しぶりで緊張するから」と会うたびにウィスキーの瓶を懐に忍ばせている奴もいたし、学校に持ってきたカバンがパンパンに膨らんでいるのにそのなかには教科書も筆記用具も入っていなくてチューハイの缶とおつまみのスナック菓子だけ、という奴もいた。社会的には明らかにも問題がある行動だが、モラリトアムとしての大学生生活を体現されているような気がして、ある種の面白さや清々しさを感じさせられた。また、世間的にも、破天荒な人や芸術家肌の人は酒を嗜むというイメージはあるだろう。それに、大半の人にとっても飲酒は浮世からの解放であり、酒を飲んでいる間だけは窮屈な日常の悩みやしがらみを忘れることができる。

 それでも、毒は毒だ。たとえば、コンビニやスーパーの酒コーナーの棚にストロング系の飲料が立ち並んでいるのを見たり、一時期のチキンレース的に度数が上がっていくストロング系新製品のブームにはゾクッと恐怖を感じさせられるものがあった。度数のことを考えると私が常飲していた箱ワインの方がストロング系よりも危険な飲み物であったことは間違いないが、自分のことは棚上げして、他人のことが心配になる。特に東京に来てからは、道路や電車などで酒を飲んでいる人の姿をよく目にするようになった。自分たちだって外で酒を飲んでいるのだから他人のことを言えたわけではないのだが……それでも、スーツを着た「まとも」そうなサラリーマンが交差点を渡りながら酒を飲んでいたり、仲睦まじそうな老夫婦や赤ん坊を連れた若夫婦が二人とも片手に酒を持っていたり、夜の電車に乗ると車内の誰かが酒を飲んでいたりする。かなりの多くの場合に、その酒はストロング系だ。酒を飲んでいるのだから、おそらく飲んでいる人たち個々の状態としてはほろ酔いであったり酔っ払ったりして楽しい気分になっているのだろう。しかし、外側からまとめて見てみて集団的な事象として考えると、そこにはやっぱり日本という社会の不健全さや辛さがあらわれているように思える。

 自分としても、酒を飲むことは好きだ。酒の味自体が好きだし料理やおつまみとの組み合わせも好きだし、ちびちび飲みながら映画をしみじみ見たり酔っ払って頭を空っぽにしてゲーム実況動画を見たりする行為の楽しさも好きだし、友人たちと一緒に飲んだり飲み会に参加する経験も好きだ。それはそれとして、可能なら酒を自分の人生から排除したいという気持ちがある。酒を飲まなければ身体や頭脳の調子が良くなっていまよりも生産的に人生を過ごせるだろうし、セロトニンの分泌量も増えて幸福にもなるだろう。お金だっていまより節約できる。


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