「中世思想原典集成2 盛期ギリシャ教父」

それは当時の辺境から興ったキリスト教が告知している受肉の神・イエスの呼びかけにほかならなかっ た。彼は自らを「道、真理、生命」(ヨハ一四:六)たる者として告知し、あのおぞましき犯罪者の死、十字架の呪いを一身に引き受けて死に、甦ったと言うのである。


ニカイア公会議において、
キリスト・イエスは「父の本性より神の独り子として生まれ、造られずして生まれ、父と同一本質ホモウーシオスである」という同一本質説が語られたのであった。(アタナシオス派?)

(アレイオスは神の「不・出生アゲンネートス」を強調し、ロゴス・キリストは父から「出生ゲンネートス」した被造物と考え、「出生以前には存在しなかった」とする。)

むしろ無からの創造論の語るように神と被造物(魂を含めた一切)とのあいだには存在論的な深淵があって、それはもっぱら神の恵み(子の受肉)によってのみ越えられるのである。したがってその意味でも子が父神と同一本質たる方として人間とな ったことが、この恵みを表す真理であるとされる


エウノミオスとその非相似アノモイオス説に一瞥を与えておこう。父と子の非相似を説いて非相似派アノモイオイを形成した。その弟子エウノミオスによれば、父なる神は不出生特徴、子なる神が出生特徴によってペルソナ的に区別される以上、両者はまったく非相似であると類推される。(こういうのもおもしろいと思うけど)
つまり、ここでは極端に子の被造性が主張されているわけである。他方でエウノミオスは、不出生が神の本質を表す名であるので、人間理性はその名によって 根拠たる神を直接把握できると考えた。その結果、キリスト・ロゴスの受肉、仲保者性さえ無意義化されてくる。


これに対しバシレイオスは、キリストがロゴスとして父たる根拠を示しつつ、他方根拠(父)は呼びかけの根源として不断に人間理性の還元活動を超越する点を際立たせようとした。すなわち彼によれば、「不・出生」とはいかなる原理にも「由来しない」という否定性を示す名である。したがって、この名によってはけっして神の本質把握はできない。だからまた「不・出生」という父の名は「出生」という子の名と本質的に対立しない(よって父と子は対立しない)以上、子がこの名から父への従属物、被造物だと推論するわけにはいかない、というわけである。

わ〜い!😄