「世界史の構造的理解」長沼伸一郎

民主国では民衆が自身の代理人として選んだ議員や代議士が、議会や国会で法律をつくるのであり、それゆえ立法権は最終的には民衆がもっていることになるわけである。


イスラム社会では誰が立法権をもっているのだろうか。まず原則論として言うならば、イスラム社会において立法権は人間の手にはない。
イスラム法(シャリーア)の場合、憲法制定に相当する作業は、ムハンマドによってイスラム法が定められたときに全て行われたのであり、その根幹部分を人間が変えたりつくったりすることは許されていない。
しかし、それではさすがに時代や状況の変遷に対応できなくなってしまうので、その際にはどうするかというと、法律の基本そのものには手を加えず、それを「どう解釈するか」によって、時代や状況の変化に対応している。
その意味では「法の解釈権」が、立法権に準じる権限であり、それをもつ者が「主権者」にもっとも近い立場にあることになる。そして法の解釈権をもつのは、意外なことに、イスラム社会では伝統的に、君主ではなくイスラム法学者で、最盛期には彼らがその役割を担っていたのである。


日本の企業戦略の標準的なスタンスをみると、それは先ほどの話の「新艦隊の最新鋭化に 全ての予算を使う」というものに一脈通じていて、現在の世界の潮流のなかで重要とされるものに、全ての資源を振り向けることが基本となっている。その組織設計は良く言えば無駄がない、悪く言えば余裕がないものとなっており、そこには〈予備戦力〉などというものが存在する余地があまりないのである。

それに対して欧米側、とくに英米の戦略マニュアルでは、しばしば最初に戦力を編成する段階で、貴重な戦力の一部を「最初からないもの」とみなす覚悟でそれを予備戦力に編入しておく、ということが常識として定着している。これが日本の組織だと「現在は戦力全体が乏しいからそんな余裕はない」と いう理由でそれを行わないことが多いのだが、彼らはそんな言い訳を認めない。かなり苦しくても、彼らは無理をしてでも予備戦力の捻出に努めるのである。 そのせいもあるのか、そもそも「予備戦力」という言葉自体の響きも、どこか日本とは違っているように感じられる。日本では「あなたの所属は」と聞かれて「予備戦力だ」と答えた場合、そこには何か「窓際族的な戦力外の老兵」のような哀れな響きがないだろうか。ところが欧米では話は逆で、むしろ「予備戦力」という言葉は、場合によっては「切り札的な最精鋭のエリート部隊」という響きを帯びる。

わ〜い!😄