「精神の生活 意志」ハンナ・アレント

「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。このことからは、以下のような結論にならざるをえない。それは、「善が生じるために、悪をしよう」ということである。あるいは、もっと穏当に言えば、アウグスティヌス自身がかつて言ったように、恩寵の圧倒的な喜びがあるからこそ、善をなしえなかったことには価値があるのだ、ということである。『告白』における彼の 解答は、なにか特別な宗教的経験がない場合にもある魂がたどる奇妙な歩みを示している。魂は、「自らが愛しているものを発見したり取り戻したりする場合のほうが、すでにこれを持っていた場合よりも喜ぶのである・・・・・・。勝利した指揮官は、喜び勇む・・・・・・そして、戦闘における危険が大きければ大きいほど、それだけますます勝利の喜びは大き いのである…………。友人が病気である・・・・・。彼が回復する。そして、彼は以前ほど強靭には歩かないけれども、そこに は、彼が強靭で健康に歩くことができた時にはなかったような喜びがある」。
こうしたことは、一切のことについて あてはまる。人生は、このことについての「例証に満ちて」いる。「最大の喜びは、最大の苦痛によって導かれる」。 ――このことは、「天使から虫に」至る一切の生命あるものの「定められた存在の様式」なのである。神でさえ、生きた神であるので、「一人の後悔している罪人のことを九九人の後悔の必要のない人々以上に喜ぶのである」。こうした存在の様式(modus)は、劣等なものにも、高貴なものにも、また、死すべきものにも、神聖なものにとっても等しく妥当するのである。


これは、たしかに、パウロが言わ

わ〜い!😄